恩返しの“熱い”舞台に 昨年甲子園出場の浦田 【連載】球夏到来・下

2020/07/08 [11:30] 公開

感謝の気持ちと諦めないプレーを胸に刻んで大会に臨む海星の浦田=長崎市、海星高グラウンド

感謝の気持ちと諦めないプレーを胸に刻んで大会に臨む海星の浦田=長崎市、海星高グラウンド

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 痛みを忘れてしまうくらい夢のような舞台だった。昨年8月、甲子園。長崎代表の海星は3回戦で八戸学院光星(青森)にサヨナラ負けしたが、全国常連の名門校と互角に戦った。2年生で唯一出場した遊撃の浦田俊輔は再三の好守で“聖地”を沸かせた。小学1年から始まった野球人生で「一番、楽しかった」。
 だが、その代償は小さくなかった。左手首付近の舟状骨を疲労骨折していた。完治まで数カ月という現実。本来ならば先頭に立って挑むはずの秋の県大会前、腰の骨を移植する手術を受けた。チームは夏の県決勝で勝っていた鎮西学院に1点差でリベンジを許し、今春の甲子園への道を断たれた。もどかしかった。
 俊足が持ち味なのに、メスを入れた腰が痛み、まず歩くことから再開。12月から段階的に全体練習に参加したが、坂ダッシュは一番遅かった。守備も左手では捕球できず、右にグラブをはめて右で投げるリハビリの日々。「正直、焦った」が、あくまでも本番は夏だと言い聞かせてきた。「野球が大好きで、続けたいから我慢できたと思う」
 冬が明け、いよいよ本格復帰という矢先、今度はコロナ禍に見舞われた。休校に部活動停止。事態は好転せず、5月には夏の甲子園の中止が決まった。予想だにしない形で、あの舞台を失った。
 それから約1カ月半。懸命に気持ちを保ち続けている。大学という新たなステージ、苦楽を共にしてきた仲間たちとの高校野球の“区切り”に向け、1年間ため込んできた思いを、この夏にぶつける。そう思えるようになった。
 無念さをこらえて前を向くわが子を、母の智美さんも献身的に支える。自身も九州文化学園バレーボール部で主将を務め、1989年のインターハイ初優勝に貢献した元アスリート。約30年間勤めた自衛隊を退職したのを機に、4月以降は寮生活から戻った息子に加え、福岡出身で海星中時代からのチームメート2人も自宅で世話している。
 甲子園の中止が決まった日の夜は、迎えに行った車内で3人に掛ける言葉が見つからなかった。完全燃焼した自分の3年間と重ねても「目標がなくなるのはショック」。それでも、スポーツに青春をささげた日々は必ず大きな財産になるはず…。野球ができることに感謝して「粘り強く、最後まで」と願うしかない。
 もちろん、それは当の本人が誰よりも心得ている。初戦を突破すれば、2回戦の相手は優勝候補の一つ、長崎商。「やるからには勝つ。苦しくても諦めない姿で恩返しがしたい」。自分だけ甲子園を経験した後、何もできずに迷惑を掛けてきた仲間や指導者、そして、一番の理解者である家族へ。やり切った先にはきっと、例年に負けない“熱い”夏が待っている。