温和な人柄で周囲に親しまれた長崎ペンギン水族館(長崎市宿町)の楠田幸雄さん(67)が今春、10年間務めた館長を退いた。民間が経営した前身の旧長崎水族館時代から数えるとペンギン飼育歴約半世紀のベテラン。今後、嘱託スタッフとして新館長や若手飼育員らをサポートする楠田さんは、「失敗を恐れずチャレンジして」とエールを送る。
5月上旬、飼育コーナーに入った楠田さんの足元にペンギンが一気に群がった。バケツに入れた餌のアジをやり終えても、なかなか離れようとしない。そんなペンギンたちに楠田さんは優しい目を向ける。
子どものころ、メダカやフナの採集に熱中し、自宅では繁殖させた金魚を時間を忘れて観察した。転機が訪れたのは、県立長崎水産高(今の長崎鶴洋高)3年の夏休みだ。約40日間実習した熊本県天草市の水族館で飼育の基礎を学んだ。生き物との触れ合いを通じて感じた飼育の魅力、やりがいが、その後の進路を決めた。
1972年、「東洋一の水族館」をうたっていた旧長崎水族館(59年開館)に就職。ペンギンをはじめアシカ、ラッコ、魚類など幅広く飼育してきたが、特に心に残るのは、子どもたちにも大人気だった雄のキングペンギン「ぎん吉」と過ごした日々だ。
62年、南極海で捕鯨船に捕獲されたペンギンたちが旧長崎水族館に運ばれてきた。その中の1羽がぎん吉だった。「自分より10年も早く水族館に来た大先輩。頭が上がらなくて」と当時を懐かしむ。77年9月、ぎん吉の子になる「ペペ」がふ化する瞬間に立ち会い、胸が熱くなった。若いころのぎん吉はやんちゃで、ペペを観察しようとすると、よくつつかれた。
楽しい思い出ばかりではない。97年、民間が経営していた旧長崎水族館は、経営難から翌98年の閉館が決まった。最盛期は高度経済成長と軌を一にしてにぎわい、39年間で約1千万人が来館した伝統ある水族館も老朽化が進み、経営難という荒波にはあらがえなかった。生き物の多くは別の水族館に引き取られ、同僚もほとんどが職場を後にした。
閉鎖された館内はひっそりと静まり返り、ペンギンたちも元気がないように感じた。暗いトンネルの中にいるようだった。それでも「残ったスタッフで頑張ることが使命」と自らに言い聞かせた。
支えになったのは市民らの激励だった。水族館存続を訴える地元住民ら市民の運動もあり、市は新しい水族館の整備を決める。喜ばれる施設になるよう、泳ぐペンギンを海の中にいるようにして観察できる水深4メートルプールの設置を提案するなど知恵を絞った。2001年4月、長崎ペンギン水族館が開館。オープンを待ちわびた家族連れらが続々と訪れ、歓声に沸いた。その時の感動を今も忘れられない。
ぎん吉は開館を見届けるようにして、02年2月に死んだ。飼育39年9カ月は、ペンギンとしては今も世界最長記録だ。「お別れ会の弔辞の原稿を書いている時も当日も、涙があふれた」。愛情込めて飼育したペンギンの死はつらく、胸が締めつけられる。体調を考慮しビタミン剤や三枚おろしのアジを与えるなど工夫を重ねた日々は、長期飼育方法の確立につながった。
10年に館長に就任。地域とのつながりを大切にし、遠足や社会科見学も積極的に受け入れた。昨年度は旧長崎水族館でペンギン飼育が始まって60周年となるのを記念した企画展や、県内初開催の全国大会「ペンギン会議」などを成功させた。
「いつも穏やかで、温かく見守り、的確なアドバイスをくれる。ペンギンの体調を見極める目もすごい」。新館長に就いた田崎智さん(35)は楠田さんについて、敬意を込めてこう話す。一方、楠田さんにとって、ペンギンの動画配信などアイデアを出し合う若手飼育員らの姿は頼もしく映る。そんな後輩らに楠田さんは「失敗を恐れず挑戦してほしい。冒険することも大切」とエールを送る。
好きな言葉は「ハッピー」「スマイル」。20代のころからペンギンの写真を撮り続け、館のポスターなどにも使われてきた。「仲が良く、ボスもいなくて平和主義。二本足で立つ姿は人間みたい。忍耐力と水中の動きが素晴らしい」。“ペンギン愛”が止まらない。