海で釣りをしているとき、獣に襲われる危険性を想定する人は、はたしてどれほどいるだろうか。2月下旬。長崎市内の男性は、同市小江町の岩場でイカ釣りをしている最中に突然、イノシシに襲われ、〝返り討ち〟にした。「命を守るために無我夢中。アウェー同士の闘いだった」。体に負った傷が癒えてきた男性に再び現場を訪ねてもらい、約10分間の死闘を振り返ってもらった。
「自分も足場が悪いアウェー(本拠地ではない意味)で、イノシシも舞台が海ということでアウェー。つまりアウェー同士の闘いだった。自分は何度か釣りに来ていた場所だった分、足場にも慣れていてこちらに勝機があったと思う。ここで死にたくないという気持ちだけだった」
●突進で飛ばされ
2月24日午後4時ごろ。同市内で個人タクシーを営む下田直樹さん(52)は仕事前、自宅から程近い防波堤に釣りに来ていた。釣り歴は40年を超す。頻度は週1、2回。この日は防波堤がファミリー客で混雑しており、干潮時に出現する対岸の岩場をスポットに決めた。
エギング仕掛けをセットし、さあこれから第1投というとき。「グググー」。背後から聞き慣れない鳴き声が聞こえた。「何だろう」と振り返ると、5メートルほど先に焦げ茶色で丸々と太った獣がこちらを向いていた。
「えっ、イノシシ!」
そう思った瞬間、突進された。衝撃で体は海側へ飛ばされた。「猪突猛進という言葉があるけれど、まさにその言葉通り。迷うことなく突っ込んできた」
下田さんは持っていた愛用の釣りざおで数回かたたいて応戦したが、脚などをかまれた。脚をかまれたまま数回か殴ったり蹴ったりし、さらに目つぶしで反撃したが、びくともしない。ズボンがかみちぎられて一瞬離れた。その瞬間を見逃さず、上から羽交い締めにしようとしたところ、もみ合いになり一緒に潮だまりに転倒した。ちょうど上にかぶさるような格好になり、すかさず左足でイノシシの頭を踏んで海中に沈め、両手で相手の背中を必死に押さえ込んだ。
それからどれくらい時間が経過したのか。イノシシがいつ窒息死したのかも記憶がない。しばらくして周囲の人から「もう離しても大丈夫ですよ」と言われ、われに返った。目撃者が警察などに通報しており、救急車に乗せられて初めて「助かった」と安堵した。左膝をかまれて出血していた。ただ痛みは搬送された病院に着いてから感じた。
感染症の懸念もあったことから、2週間ほど入院した。体には生々しい傷が残る。かみつかれた左膝の傷はあと数センチ深ければ動脈に達して致命傷だったと医師から言われた。左膝付近を8針縫った。かまれた傷か牙がかすめた傷かはわからない。岩場で切ったとみられる手は3針縫った。
●体長1メートル、80キロ
猛獣に勇敢に立ち向かった下田さんの「胆力」は、小学2年のときに始めたソフトボールで培われた。現在は地元自治会チームの主戦投手で、シーズン中は週1回の試合で豪腕を発揮する。自治会とは別のチームでもエースを張り、個人タクシー連合会が主催する九州大会で9連覇中だ。チームメートの男性(58)は「投げる球はめちゃくちゃ速い。同年代の中でも彼は足腰が格段に強い」と明かす。
長崎県警によると、襲ってきたイノシシは体長約1メートル、体重80キロ。海を泳いで岩場に上がってきており、通報時間などから計算して格闘は約10分間だったとみられる。市農林振興課有害鳥獣相談センターの担当者は「素手で撃退した話なんて聞いたことがない。イノシシは通常は臆病な性格だが、何らかの原因で興奮状態にあったのだろう」と驚きを口にする。「イノシシは人間社会に慣れて、昼間も行動するようになった。もしイノシシと遭遇しても決して立ち向かおうと考えず、逃げることを最優先に考えてほしい」と呼び掛ける。
死闘から2カ月。やっと通院が終わった。「これだけ重傷を負いながら傷害保険も適用されない。でも一生に一度しかない体験だろうし、傷は残ったけど本当に助かって良かった」と下田さんはふり返る。大好きな釣りは、退院してから一度も行っていない。「また釣りに行くのか」と尋ねると、笑ってこう答えた。
「家族からは1人で行くなと心配されているけれど、自分は行くよ。もうそろそろ再開しようかな。これからがイカ釣りのシーズン本番。もちろん、これからはイノシシが近くにいないか十分に用心しないとね」