「冒涜されるの見たくない」 水俣病センター相思社の永野三智さん マイク遮断で被害者と受けた傷【寄稿】

2024/07/09 [12:10] 公開

テレビ報道を見た大阪の小学生から送られてきた手紙を手にする松崎さん(左)と永野さん。似顔絵に「水俣おうえんしてます」とメッセージが添えられていた=熊本県水俣市内

テレビ報道を見た大阪の小学生から送られてきた手紙を手にする松崎さん(左)と永野さん。似顔絵に「水俣おうえんしてます」とメッセージが添えられていた=熊本県水俣市内

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水俣病被害者団体と環境相の懇談の場で、被害者側のマイクが切られ発言が遮断された。同席した水俣病センター相思社(熊本県水俣市)職員の永野三智さんに、被害者とその事態をどう受け止めたのか、寄稿してもらった。

 看取った思い

 5月1日のことでした。水俣病公式認定から68年の日、水俣湾埋立地にある慰霊碑前で犠牲者慰霊式後、伊藤信太郎環境大臣と八つの患者団体との40分の懇談が行われました。私は当日、水俣病患者連合副会長の松崎重光さん(82)に同行しました。
 妻の悦子さんは昨年4月に、痛みの中でのたうち回って亡くなりました。葬儀が終わって以降、「患者がどんなふうにして死んでいくのか、自分はそれをどんな思いで看取ったか、チッソに、国に県に市に伝えんば」と憤りながら言うのが重光さんの口癖になりました。普段は穏やかな不知火海のような重光さんですが、70年近い水俣病の被害の中で、何度も親類や近隣の人びと、魚や猫が殺されていく姿を目にしました。悦子さんが亡くなって、その記憶が爆発したのだと思います。
 重光さんにとって悦子さんを語るのはつらいことで、本当ならば、ゆっくりと時間をかけて話したいことだと思います。少しずつ、時間をかけて、語れない時間も経て言葉を絞り出し、3分と定められた枠を前に練習を重ねました。
 伊藤環境大臣は会場に5分遅れて到着し、「現地に来て皆さんの話を聞くことは重要な機会」とマイクを通して言いました。三つ目の団体の人が、溝口訴訟判決はどう生かされたかを問うているとき、そして次の人が特措法の話をしたとき、マイクの音が切れました。私には何が起きているのかわかりませんでした。

 届かない言葉

 重光さんの番になりました。思いがあふれ、言葉は前に進みません。
 「チッソが噓をつき、それに国と熊本県、多くの科学者が協力し、メチル水銀という毒を流しつづけた。我々はそれを知らずに一生懸命海に出て、魚を目いっぱい獲って市場に卸し、その魚は熊本県中に売られていった。毒入りと知らず、水銀漬けの魚を食べるだけ食べて、水銀で全身焼けきってしまった。妻が痛いよ、痛いよとのたうち回っても、私は何もしてやれなかった。妻は海に生まれ、海に生き、その海で苦しみながら、浄土へ行った」
 そう言っている途中で環境省の木内哲平特殊疾病対策室長は「話をおまとめください」と言い、直後にマイクの音声を切りました。重光さんは絶句しました。横に座った重光さんのその顔が、今も私の頭から離れません。重光さんからマイクを受け取って、電源が切られていると知りました。私は、重光さんに「マイクはないけど最後までしゃべっていいですよ」と声をかけました。
 そして重光さんは「あなた方にとっては、たいしたことではないのでしょうね。でもね、患者はみんなこうやって死んでいきます。腹が立つを通り越して、情けがないです。自民党の皆さんは私らを棄てることばかり考えず、我々を見て、償う道を考えてください」と言いました。環境大臣はすごく遠くに座っていたから、声は届かず、重光さんの言葉は宙に浮きました。
 「中立の立場」を主張する高岡利治水俣市長は前を向いたまま微動だにせず、「患者に寄り添う」と言っていた木村敬熊本県知事はただただ下を向いていました。他の団体の人たちが抗議してくれました。「私たちの時間を使って」と言ってくれました。そうやって、たった3分を譲り合ったのです。
 全員が話を終える間際に、後ろの官僚が次々と手渡したメモ。環境大臣は「胸が締め付けられる思いです」と言いながら、そのメモを数秒凝視し、それから話し始めた言葉が空虚だったのは、彼自身の言葉ではなかったからでした。
 最後に支援者たちが、マイクを切ったか尋ねたとき、環境省の職員は「不手際だった」と言い、環境大臣は「マイクを切ったという認識はない」と言いました。「認識はない」と聞いて、あぁこの人は、重光さんの話も聞いていなかったんだと、それで私は気がつきました。私は「認識していたでしょう」「もう『患者の話を聞きました』なんて言わないでください」と叫んでいました。
 会が終わって握った重光さんの手は、冷え切っていました。重光さんは「みっちゃんが俺のかわりに怒ってくれたけん、俺は怒鳴らず済んだよ、ありがとうね」とニコニコしながら言いました。理不尽な目に遭いながらも、目の前にいる相手を労(ねぎら)う。長い闘いのなかで、重光さんは、こうやって周りの信頼を得てきたのだと思います。この人が冒瀆(ぼうとく)されるのを、もう二度と見たくはありません。

 「つるし上げ」

 5月1日に行われる環境大臣と水俣病患者の懇談の席で、国は長年シナリオに「持ち時間が近づいた場合、手短に…〈三分でマイクオフ〉」「しゃべらせろと言われた場合の対応」と書いていました。血のにじむ人生を必死でまとめる患者に与える時間は3分ですが、「大臣の発言は八分確保、発言は最低でも三分はほしいところ」と報道によって明るみに出ました。
 木村敬熊本県知事は、定例記者会見(熊本県ホームページに掲載)で「伊藤大臣はすごく真剣に聞いてくださっていた」「最後に(患者が)グダグダ揉めだした」「事実上、(患者から)つるし上げになってるんですよ。大臣も環境省も」と語りました。
 記者から「つるし上げという言葉は、縄で縛って木につるすという行動で、あるいは威圧して非難する、私たちもネガティブなイメージで使うが、知事としては、患者団体が大臣や環境省をつるし上げたという認識か」と尋ねられ、「非常に厳しい怒号、厳しい怒りを込めて、大臣や担当者を叱責されていたことを言いたかった」と訂正しました。
 社会の無理解を煽(あお)る県知事の「つるし上げ」発言は、被害者をさらに苦しめます。

 一人にしない

 この20年、患者とともに行政と対峙(たいじ)する中で、目の前の被害者がさらに踏みにじられた、口をふさがれたと感じることが何度もありました。それは私の中に生々しく残り、何度同じ経験をしても塗り替わることはありません。一つひとつは際立ち、患者と過ごした時間とともに同じ熱量でそこにあります。死んでしまった人との時間の熱はさらに高い。
 私はこれまで、患者でない自分は傷つかないし、傷ついてはいけないと思ってきました。だけれども今回、患者じゃなくたって、当事者じゃなくたって、傷つくのだと、傷ついていいのだと知りました。患者が傷を負うときに、彼らを一人にしなくてよかったと思います。私には何もできなかったかもしれないけれど、そこにいることはできた。隣にいて、同じ経験をして、そして一緒に傷ついた。患者さんたちの痛みをお腹いっぱいに聞いた私は、悲しかったし、苦しかったし、時には自分の加害性に気づかされたけれど、ともに過ごした時間のなかの苦しみと幸せの記憶は私の財産です。
 傍目にもショッキングな出来事に、そこにいた報道の人たちも傷ついたのだと思います。報道に乗って日本中にこの出来事が届きました。患者と同じように苦しんできた全国のあらゆる被害当事者が同じ痛みを思い出したと思います。そして、当事者ではないと思っている人たちの心も揺さぶりました。その揺さぶりと傷つきは、被害者を一人にしないことにつながっています。
 被害者が声を上げるということは、今も昔も勇気と覚悟のいることです。報道の向こうにいる人たちが、なぜ怒っているのか、なぜ泣いているのかに関心を寄せてほしい。水俣病だけではなく、他の多くの踏みにじられている人びとに向けても。水俣病だけが救われればよいのではないのです。

 【略歴】ながの・みち 1983年、熊本県水俣市生まれ。2008年から現在まで一般財団法人水俣病センター相思社の職員として患者相談業務を担当。14年から相思社常務理事。17年から水俣病患者連合事務局長。著書『みな、やっとの思いで坂をのぼる』(ころから)