「奇跡の母」の娘は今…意識不明の女性が60年前に出産 「決して美談ではない」戸惑い抱えた子の半生

長崎新聞 2024/08/26 [12:00] 公開

母親の写真や記事を手にするリカさん=仮名=(画像は一部加工しています)

母親の写真や記事を手にするリカさん=仮名=(画像は一部加工しています)

  • 母親の写真や記事を手にするリカさん=仮名=(画像は一部加工しています)
  • 眠ったままの母を見舞うリカさん=1967年6月14日、長崎市内(当時の長崎新聞より)
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8月5日の長崎新聞に「“奇跡の母”を追って」という記事を掲載した。60年前、交通事故で意識不明となった長崎市内の女性が、眠ったまま娘を産み、全国で話題となった。当時の資料を基に、その経過を紙面で紹介すると、県外で暮らす女性から「私の母のことかもしれない」と新聞社に連絡があった。現在60歳になったはずの娘の消息は、取材でもつかめずにいた。記者が会いに行くと、女性は静かに口を開いた。「決して美談ではないですよ」


◆「あなたの話じゃない?」
 現在は県外に暮らすリカさん(60)=仮名=は、1964年4月、長崎市内で生まれた。母ケイコさん=仮名、当時(25)=は、前年10月に交通事故で意識不明になった後に妊娠が分かった。病院の尽力で昏睡(こんすい)状態のまま出産すると、メディアは“奇跡の母”ともてはやした。夫が手記を出版し、映画化までされた。

 今年8月5日に経過をまとめた記事が本紙に載ると、リカさんに長崎の友人から「あなたの話じゃない?」と連絡があった。生年月日が一致する上、自分が意識不明の母親から生まれた話も聞いたことがあった。ただ詳しいことは知らされておらず、「何か分かるかも」と新聞社に問い合わせた。記者は、取材で得たありったけの資料を抱え、リカさんの住む町に向かった。

◆世間の関心の的に
 リカさんは幼少期を新上五島町(当時、有川町)の児童養護施設で過ごした。長崎市内の病院に意識不明の母を見舞った記憶が、おぼろげにある。「手を握ってごらん」「(お母さんが)笑ってるんじゃない?」。周囲の看護師が口々に言ったが、目の前で眠る女性が母親だと、幼心にはうまく飲み込めなかった。

 病室には看護師と別に、大人の男が何人もいて、自分が動くとぞろぞろ付いてきた。「今思えばカメラマンだったのかな」。当時の様子は確かに本紙に載っていた。マスコミは小学校の入学式にも現れた。こちらも本紙に「奇跡の子 やや緊張の入学式」の記事。幼いリカさんの成長は、世間の関心の的だった。

◆亡くなったこと知らされず…
 小学1年生の夏、突然父が迎えに来た。既にケイコさんと離婚し、再婚相手との間に子どもがいた。「『きょうからお父さん、お母さん』といきなり言われ、戸惑った。そういうのを知らずに育ってきたから」と振り返る。


 両親の会話や態度から、自分は「もらわれた子」だと察した。実の母親のことを知りたかったが、聞いても言葉を濁された。実母は、リカさんが父に引き取られて間もなく亡くなっていたが、リカさんには知らされなかった。


 高校生のころ、アルバイト先の女性から「あなたを見たことがある」と話しかけられた。報道で“奇跡の母”を知っていたのだ。そこで初めて、自分の出自にまつわる大まかな話を聞くことができた。


◆信じられない父の姿
 60年前の出来事をたどった本紙の記事は、インターネットでも公開され、反響があった。ケイコさんに同情する声や娘のリカさんの幸せを願う声の他に、ケイコさんと別れて再婚し、死に目に会おうとしなかった夫の態度を「冷たい」と非難する意見が多かった。リカさんも「いい父親ではなかった」と同意する。父は数年前に死去した。


 父が生前に手記を出していたことは、記事で初めて知った。病床の妻を献身的に看護したり、治療費の工面に奔走したりする様子がつづられているが、にわかに信じられない。ケイコさんのために全国から集まった寄付金を持って、再婚相手と逃げた-。父について、リカさんが聞いたのはそんな話だ。病院側の記録によると、ケイコさんの治療費は、一切支払われなかった。


 父の手記は、生まれたばかりの娘への呼びかけで締めくくられている。


 「お前のお母さんは、決して無軌道な女じゃないんだ。それどころか、立派なクリスチャンなんだ。どうか心のやさしい、おかあさんのような立派な女に成長してくれ」


 記者が目の前で読み上げると、リカさんは吹き出した。「絶対うそですよ」


◆「違った人生があったかも」
 「父に引き取られたあの日が、私の人生の分かれ道だった」とリカさんは振り返る。「あのまま養護施設にいたら、違った人生があったかもしれない」


 本紙は、リカさんが引き取られた日のことも報じていた。「別れの日、リカちゃんは船の上でオイオイ泣いた。保母さんや友達の大きな声が“しあわせにネ”と、いつまでも港に響いていた」


 恐らく、リカさん本人が紙面に登場した最後の記事だ。約半年後、母のケイコさんは亡くなり、“奇跡の母”の物語は、世間から忘れ去られた。リカさんの物語は、当然その後も続いた。「いろいろなことがありました。なかなか波瀾(はらん)万丈だと思いますよ」と笑う。


 新聞社に1枚だけ残っていたケイコさんの写真をコピーし、リカさんに渡した。「いろいろ調べていただき、ありがとうございます」。リカさんは丁寧に頭を下げて、娘や孫と暮らす自宅へと帰っていった。