100歳の被爆者女性 次男の死、乗り越え伝えた「原爆絶対に作らせない」 長崎で願い続ける平和

2024/07/13 [10:30] 公開

「長崎の鐘」を打つ中村さん(左)=長崎市松山町、平和公園

「長崎の鐘」を打つ中村さん(左)=長崎市松山町、平和公園

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長崎の被爆者4団体の一つ、県被爆者手帳友の会顧問の中村キクヨさん(長崎市小瀬戸町)が1日、100歳を迎えた。21歳で被爆し、被爆者救済に尽くしてきた半生。今でも体調がよければ毎月9日、平和公園の「長崎の鐘」を鳴らす活動に姿を見せる。「自分で歩いて鐘のもとに来ることができる間は、いくつになっても参加する」。穏やかな笑顔で今日も平和を願う。
 79年前の「あの日」。爆心地から5・8キロの小瀬戸町の自宅庭で被爆。生後1カ月の長男の下着を干そうとした途端、爆風で飛ばされた。目が覚めて家に入ると、中はめちゃくちゃになっていた。長男は母の腕の中にいて無事だった。
 翌日、けがを負った人が近くの海岸に運ばれていた。手当てに加わったが「水をください」「お母さん」と叫び、次々と死んでいった。その後、爆心地近くに住んでいたおばらを父とともに捜しに出た。長崎駅を過ぎた辺りで、憲兵に「もう向こうは全滅ですよ。行っても何もないですから」と止められた。どうすることもできず、そのまま引き返した。遺骨は見つからないまま、今でも近くを通るたびに「この下にあるのでは」と思ってしまう。
 1967年、友の会が発足し、小瀬戸支部の代表になった。壱岐や五島へ出向き、長崎で原爆に遭った人に被爆者健康手帳の取得を働きかけた。68年、上京して国会議員らに陳情し、被爆地域拡大にも貢献した。
 小さな町に暮らし、被爆者の悩みに寄り添ってきた。2006年、市平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表に選ばれた。被爆2世の次男=享年(55)=を白血病で亡くしたことを初めて語った。
 「医師から『白血病は親からもらった』と聞いた時、信じられなかった。子どもに病気を与えてしまった」。次男に申し訳ない思いは消えず、本当は語りたくなかった。家族の後押しもあり大役を務めた。多くの人から「感動した」という声が届き、「話してよかった」とようやく思えた。
 その後、ピースボートの「証言の航海」に加わったり、高校生と韓国に渡り、在韓被爆者と交流したりした。次男の話も伝えられるようになり「人の命をむしばむ原爆を絶対に作らせない」と訴えてきた。
 友の会発足当時を知る数少ない会員の一人。被爆体験を人前で語る機会は少なくなり、家族との日常を大切に過ごす。毎朝午前7時半、寝床を出て、8時に朝ご飯。「何歳になっても、きれいでいないと」。身だしなみを整え、2時間かけて新聞を読んだり、庭の手入れをしたりする。一番の楽しみは「息子や孫と一緒におやつを食べる時間」。
 今月9日午前11時2分、「長崎の鐘」の前にいた。幼児らと並び、鐘に結び付けられたロープを懸命に引いた。「この子どもたちが大人になっても、平和な日々が続きますように」。鐘の音が響くと、曇り空が青く晴れ渡った。