カネミ油症51年の証言 「私たちをなかったことに」 半世紀経て初受診「認定至らず」

2019/03/13 [10:39] 公開

「油症と認定するには至らない」との一文が記載された通知。あまりにあっけない「結論」に、陽子はむなしさを覚えた=五島市内

「油症と認定するには至らない」との一文が記載された通知。あまりにあっけない「結論」に、陽子はむなしさを覚えた=五島市内

  • 「油症と認定するには至らない」との一文が記載された通知。あまりにあっけない「結論」に、陽子はむなしさを覚えた=五島市内
  • 今でも体中の激しい痛みに襲われる陽子は、鎮痛薬が入ったポーチを手放すことができない=五島市内
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 今月7日。長崎県五島市内に暮らす田村陽子(56)=仮名=の自宅に、県から一通の封書が届いた。そこには、カネミ油症患者としての認定を求め、昨年初めて受けることができた検診の結果が記されていた。

 「油症と認定するには至らない」

 体中の激痛や吹き出物、繰り返した流産-。原因不明の苦しみに支配された半世紀を思えば、あまりに残酷であっけない「結論」だった。

 県は11日、本年度の油症検診で新たに3人の認定を発表。受診した県内の未認定患者60人のうち57人は認定を拒まれた。その1人が陽子だ。

 1968(昭和43)年、当時5歳。五島市奈留島に両親と兄、弟の5人で暮らしていた。父は漁業、離れた集落に住む祖父母はいりこや干物を製造。家業は順調で、暮らし向きは悪くなかった。

 一家は近くの商店から、一斗缶や一升瓶入りの食用油を配達してもらい、毎日のようにすり身や天ぷらを揚げて食べた。この油こそカネミ倉庫(北九州市)が製造した汚染油だった。

 小学生の頃、よく一緒に食卓を囲んだ祖母が子宮がんを発症。がんは、ぼうこうや皮膚などに次々と転移した。祖母は夜中に激しい腹痛に襲われ、父や母、陽子たちがタクシーで病院に付き添った。「七転八倒の苦しみ」は年に数十回に上ったが、その原因は分からなかった。

 やがて、近所に住む一つ上の「お姉さん」の顔に、ザクロのような形の吹き出物が次々と現れた。その家族は全員が油症認定されていた。「顔中が脂ぎって、直視できないほどかわいそうな姿だった」。陽子はふびんに思ったが、近所の人の反応は違った。「あの家は金をたくさんもらった」「あれは“カネミ御殿”」-。集落で語られる「カネミ」の話題は、原因企業が支払う見舞金へのねたみが主だった。

 陽子の家族も当時、積極的に油症検診を受けようとはしなかった。むしろ父は子どもたちの結婚などに差し障ることを恐れ、「関わってはいかん」と油の入った容器を処分。集落には、被害を言い出せない空気が満ちていた。

 だが陽子も体調不良に悩んでいた。小児ぜんそく、ひどい湿疹-。中学生の頃からは生理不順と、「鎮痛剤が効かない」ほどの生理痛を繰り返し、毎月のように学校を休んだ。

 その頃、汚染油を食べた親戚の女性が、卵巣がんのために23歳の若さで亡くなった。その女性もひどい生理痛に苦しんだと聞いた陽子の母はひどく心配し、高校に進学した陽子を長崎市内の産婦人科に連れて行った。診察した医師は、陽子と母を前に言った。

 「おそらく子どもは産めないでしょう。妊娠は難しい状況です」。陽子は目の前が真っ暗になった。

 カネミ油症事件の発覚から50年目にして、本年度初めて検診を受けた五島市の未認定患者、田村陽子(56)=仮名=は、半生をこう振り返る。「若い時から、調子が良いと思える日は1日もなかった」-。それどころか、年を重ねるごとに症状は重くなった。

 1968年に油症事件が発覚し、その十数年後。同市奈留島の高校を卒業した陽子は島を離れ、県内の短大に進学した。五島出身の夫と出会い、短大卒業後に結婚。県内の本土で暮らし、間もなく長男を授かることができ安堵(あんど)した。だが産後の肥立ちが悪く、一度も母乳を与えられなかった。

 体の不調は続いた。20代から目まいや吐き気が続く「メニエール病」の発作が相次ぎ、子育てどころではなかった。耳の後ろや足の付け根など皮膚の柔らかい部分に直径数センチの吹き出物が繰り返しでき、病院で切開したり自分で破いたりした。さらに長男を産んだ後、30代半ばまでに4回の流産を経験。高校の頃に医師から「将来子どもはできない」と言われた恐ろしい記憶がよみがえった。

 陽子が40歳になる頃、体調を崩した夫の母の看病をするため、家族で五島市に帰郷。その数年後、陽子の母にも大腸がんが見つかり看病に追われた。

 「体調悪化のピークはこの頃。胸や背中に訳のわからない猛烈な痛みがあり、起き上がることもできなかった」。病院でも原因は分からず、処方された漢方薬や痛み止めは全く効かなかった。目に見える症状はないため家族に相談できず、「死ぬことを考える」ほどに追い詰められた。

 転機は1年余り前。県外に暮らす友人の女性に、こう言われた。「ひょっとしてカネミじゃないの」。彼女は油症認定患者で、陽子と同じく激しい痛みに長年苦しんでいた。その後、他の認定患者にも相談し昨夏、わらにもすがる思いで検診会場に初めて足を運んだ。しかし認定で重要視されるダイオキシン類の血中濃度は基準値以下。今月、「非認定」の通知が届いた。

 ようやくたどり着いた検診。だが陽子は、その在り方に強い違和感を覚えた。「通り一遍に血圧を測ったり採血したり。学校の集団検診みたい」。油を食べた状況や、自分や家族の症状についても積極的に詳しく聞いてくる感じではなかった。

 「国や自治体に、苦しむ人を助けようという責任感はない。私たちを切り離し、なかったことにしている」。現に、90歳近い父親は背中や顔に黒い吹き出物があり、十数年前から検診を受け続けてきたが、認定されないまま。とうとう昨年、「誰も信じてくれん」と受診をやめた。母親は未認定のまま亡くなった。

 陽子は今になって認定を求めることに“負い目”さえ感じる。だがこれまで、陽子が自らの症状とカネミ油症を結び付ける機会がほとんどなかったのも事実。偏見を恐れ家族は被害を隠し、行政からの情報は届かない。病は“原因不明”となり、月1万円を超える医療費を払い続けてきた。

 「もう治るとは思わないけれど、安心して治療が受けられるだけの医療費が必要」。陽子は今後も検診を受け続ける。そして、知り合いにもできるだけ声を掛けて連れて行くつもりだ。「五島には私のように、油症と知らずに長く苦しんでいる人がたくさんいると思うから」=敬称略=