<長崎空港開港50周年・昭和から令和へ②>難交渉 心動かした一升瓶…島のともしび消える

長崎新聞 2025/04/27 [11:30] 公開

広大な畑に覆われていた箕島(元島民・松尾正人さん提供)

広大な畑に覆われていた箕島(元島民・松尾正人さん提供)

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1972(昭和47)年、「新大村空港起工式」の見出しが大村市政だよりに躍った。島が爆破される瞬間の写真とともに書かれていたのは「先祖伝来の土地家屋を失う箕島のかたがた」の犠牲を忘れてはならないという言葉だった。

 箕島には開港前、13世帯66人が暮らしていた。温暖な気候で、ダイコンやミカン栽培が有名だった。空港建設のための用地買収に当たった知事の久保勘一(当時)は、76(同51)年の講演で島民の裕福さを紹介し「こういう金持ちのだんなさんたちを相手に交渉したら、これは大変なことになる」と明かした。

 当初、交渉は難航した。測量を試みるも島に上陸できない。久保自身が小舟で島を訪ねたが反対派は腕を組んで動かず、久保が相手を海に突き落としてしまう騒動もあったという。

 久保の呼びかけに応じて集まった13世帯は「空港の問題で来たなら帰る。農業か何かの話なら聞く」という様子だった。久保は島を6回訪ね、農業の話をしたが「1時間も話せばなくなるのですよ」。そうして空港に触れると、島民は横を向いてしまうのだった。

 7回目の交渉。「きょうできなければ断念しよう」と考えたという。集まった島民に、交渉をやめるので酒を飲んで別れようと呼びかけた。島民はうんと言わないが、久保は一升瓶を開けて飲み始めた。すると、高齢の男性がつられて1杯飲んだ。「飲むだけはよかじゃっか、話は聞く耳持たぬけれども」。こうして皆で飲み始め、そのまま久保は朝まで寝てしまった。

 これ以降、雰囲気が変わったという。元島民の山口敏實(73)=同市須田ノ木町=は「親たちも生活基盤は本土に負けていないという自負があった」と振り返る。一方で「自分たちの思いだけで反対していいのか」とも考えていた。久保は計13回島へ渡り、島民の補償の相談に乗った。

 久保が知事に就任して丸2年たった72(同47)年3月、島の解散式が執り行われた。島民は涙ぐみ、慣れ親しんだ古里に別れを告げたという。当時の大村市政だよりにはこう記されている。

 「ここに代々続いた箕島のともしびは消え、新しく空港としてのネオンが、やがて昭和四十九年の秋にともされることでしょう」

 3年後の75(同50)年5月、箕島は大きく姿を変え、空港に生まれ変わった。島のライトは現在、夜の大村湾を鮮やかに照らし出している。=文中敬称略=