宣戦布告、学徒動員…克明に 長崎・大村高に戦時中の教務日誌 旧制中学、高等女学校で書かれる

2024/12/10 [11:48] 公開

旧制県立大村中の教務日誌。右側のページは米国への宣戦布告が記された1941年12月8日の記録=大村市、大村高

旧制県立大村中の教務日誌。右側のページは米国への宣戦布告が記された1941年12月8日の記録=大村市、大村高

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長崎県立大村高(大村市久原1丁目)の前身、旧制県立大村中や大村高等女学校で戦時中に書かれた教務日誌が、大村高に現存することが分かった。太平洋戦争開戦の日の米国への宣戦布告、学徒動員、大村大空襲、玉音放送などの状況が端的ながらも克明に記録され、学生生活に戦争が浸透していった時代のありようをうかがい知ることができる。
 同校は江戸時代の藩校の系譜を受け継ぎ、今年で創立140周年を迎えた。校内には明治以降の資料が保管されている。今回確認したのは、1941(昭和16)年度の大村中、44(同19)年度と45(同20)年度の大村高女の教務日誌。A4サイズ程度の紙に日々の出来事や時間割、連絡事項、生徒の出欠などを黒の文字で細かく記している。現存しない年度もある。
 旧日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃した41年12月8日。「宣戦布告ノ詔書煥発(かんぱつ) 午前十一時 英米国ニ対シ」「必勝祈願参拝 三時大村神社ニ」とあり、その日のうちに神社参りしたことが分かる。この年は「中間考査第一日」など現代の学校生活と似たような記録と、「飛行予科練習生募集」の講演があったことなど戦時を思わせる記録が混在している。
 戦争が激しさを増した44年5月9日には「三年生以下五校時マデ普通授業 四年生終日明日ヨリノ出動ニツイテノ準備」と記載。下級生は授業を受け、上級生が学徒動員に向かっていたことがうかがえる。
 大村大空襲があった同年10月25日。▽午前9時40分ごろ米爆撃機B29が襲来した▽全校生徒を体育館横に集め、教師が「自宅が被災していても毅然(きぜん)とした態度を崩すな」と訓話して下校させた▽夕方、動員中の生徒が亡くなったことが分かった-ことなど、つぶさに記述していた。
 終戦した45年8月15日には「“ラヂオ”ノアル家庭ハ正午ノ放送ヲ拝聴スル」ことを通達し、政府重大声明(玉音放送)を「一同服装ヲ正シテ」聞いたと記されている。
 詳細な記録は1日1ページずつ残っており、保存状態は良好。市近代資料室は「当時は当たり前の業務だったものが、今では歴史を証明するものになっている。失われる記録も多い中、その恩恵にあずかって過去を知ることができる」と評価した。