なぜ北にあるのに「西」? 佐世保西高の校名の理由…絡み合った場所と名付けの事情 長崎

長崎新聞 2024/09/15 [12:00] 公開

佐世保市で方角が校名に付く県立高

佐世保市で方角が校名に付く県立高

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この春、佐世保市にきて「おやっ」と思うことがあった。それは県立高校の校名と学校の位置。佐世保西高(田原町)は佐世保北高(八幡町)より約3・5キロも北にある。経度は若干西高の方が北高より西側だが大差はなく、緯度の差のほうが目を引く。なぜ北にあるのに「西」高と名付けられたのか、調べてみた。

◆市立として誕生
 今年、創立60周年を迎えた佐世保西高だが、市内の公立高校の中では新興校だ。戦後の学制改革で長崎市の県立長崎東高、長崎西高設立(1948年)に続いて翌49年、佐世保北高と南高(日宇町)が開校。県内に東西南北の高校がそろった。

 その後、第1次ベビーブームの影響で、県内各地で児童生徒数が増加。長崎市では61年に長崎南高、64年には長崎北高がそれぞれ誕生。佐世保市でも普通高校新設を望む声が市民から上がった。

 佐世保西高の「創立二十周年記念誌」によると、当時の辻一三市長らが佐藤勝也知事に高校新設を陳情したが、県は南北両高の学級数を増やし対応してほしいという方針を変えなかった。そこで、辻市長らは市立での高校創設を決め、64年4月1日、「佐世保市立西高」が開校した。

◆南北に対して西
 校舎が完成するまで市立商業高(当時は今福町、現県立佐世保中央高)の施設を借りていたが、66年に現在の田原町へ移転。72年には市から県に移管され、県立佐世保西高となった。県立移管の際、そのまま西の名称が採用された。

 ではなぜ、そもそも西なのか。開校直前の64年1月29日の「佐世保市議会臨時会会議録」に次のような答弁が残っていた。

 議員の一人が西を名称に入れた理由を尋ねると、辻市長は「学校の位置について、将来つくるならばやはり南北に対して西、そういった地域の方がより合理的ではないかということで、(中略)名称として南北に相対する西の名称とした」と答弁している。

 くしくも64年に中学校教員となった佐世保史談会の中島眞澄名誉会長(84)はこう分析する。「64年時は佐世保の南北高に加え、県立佐世保東商業高(東商高時代は陣の内町、現県立佐世保東翔高)があり、公立高で未使用の方角は西しかなかったから西になったのではないか」。東商高は55年に県立早岐高として開校、62年に東商高に校名を変えていた。

◆建設場所には?
 一方、「西だと名乗るならもう少し(市西部の)相浦の方でも良かったのでは」と中島さんは設置場所には首をかしげる。64年6月19日の長崎時事新聞に市議会で西高の建設場所を問われた辻市長が「大野左石駅裏に一万坪の土地を買うよう契約した。都心に近い場所をと捜したが適当な場所がなかった」と答弁したという記事が載っていた。高校を造るのに適した用地が現在地のみだったのかもしれない。

 西高9回生の久田満智子さん(68)は西高が県立になった72年に入学した。位置関係について尋ねてみると「考えたことはなかったけど、言われてみればたしかに北の方」と笑う。孫も現在西高の2年生。「少子化の時代だけど、これからも歴史が続いてほしい」と願う。“還暦”を迎えた西高は今日も田原台から生徒たちの成長を見守っている。