諦めたことがもう一度できる喜びを 「どん底」乗り越え 長崎にデイサービス施設開所 浦川春樹さん

2024/05/09 [11:00] 公開

度重なる病を経験し、デイサービス施設を開いた浦川さん=長崎市矢上町

度重なる病を経験し、デイサービス施設を開いた浦川さん=長崎市矢上町

  • 度重なる病を経験し、デイサービス施設を開いた浦川さん=長崎市矢上町
  • 仲間と共にデイサービス施設を開所した浦川さん(右)。トレーニング機器や入浴施設の他に、カフェのようなカウンターも設けている=長崎市矢上町、リハステージ矢上
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 長崎市矢上町に今月、一風変わった通所介護(デイサービス)施設が開所した。カフェのような内装。スタッフは全員が40代以下だ。高齢者や病気を患った人が以前の日常生活をあきらめず、もう一度「できる」ようになるために-。代表の浦川春樹さん(42)がそんな介護を目指す理由は、度重なる病を乗り越えてきた自らの過去にある。
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 同市出身。体の「異変」に気付いたのは両親だった。4、5歳ごろの浦川さんが友人らと一緒に写る集合写真。浦川さんだけ体が傾いているように見えたという。背骨が左右に曲がる「脊柱側彎(わん)症」と診断された。
 進行を抑えるため、物心がつく頃には腰から胸までを覆う「装具」を付けた。運動中や寝る時以外は装着。いすには何とか座れたが、体育座りは難しい。思春期には人目が気になり恥ずかしかった。成長期が終わる高校卒業時にようやく、十数年続いた「装具生活」から解放された。
 だが本当の苦しみは、その後にやってくる。20歳ごろに腰や骨盤周りが痛みだし、アルバイト先で物を持ち上げられなくなった。特にいすに座り続けると「火であぶり続けられるよう」な激痛が走り、大学の授業もまともに受けられない。詳しい原因は不明。誰にも相談できなかった。
 大学4年の時、耐えかねて中退を決めた。母親と共に退学の手続きを終えた帰り道。一人きりになると、涙があふれた。自分の情けなさ。親への申し訳なさ。その時は「どん底」だと思っていた。

◎諦めた日常生活 もう一度 難病で知った患者の苦悩

 転機は27歳ごろ。風呂上がりに何となくストレッチをすると「痛みが消えた感覚」があった。看護師の母親から理学療法士(PT)の職を数年前に勧められたことも、ふと思い出した。「自分の体をもっと知りたい」。28歳から市内の専門学校で4年間学び、PTの国家資格を取った。
 脳卒中や整形外科手術などを経験した人たちのリハビリを支援する県内の施設に勤め、脊柱側彎(わん)症専門の運動療法を行う「国際認定シュロスセラピスト」の資格も取得した。
 だが38歳の秋ごろ、再び激痛に襲われた。左手や首の痛み、しびれ、頭痛…。「寝違えた時の100倍の痛み」があった。精密検査で判明した病名は「脊髄空洞症」。脳脊髄液の循環が滞ることによって脊髄内に空洞ができ、多様な神経症状や全身症状が現れる指定難病だった。治療のため職場を一時、離れた。
 発症の翌年、8時間に及ぶ手術を受け、職場に復帰。少し“景色”が変わっていた。自分自身が術後のリハビリで感じたのは「当たり前ができないつらさ」。本当は自分で買い物に行きたい。料理や洗濯をしたい-。今まで接してきた患者たちの苦しみを心から理解し、向き合えるようになった。
 昨年、勤めていた諫早市内の施設を退職。自らの経験を基に、利用者の「自立支援」に力を入れたデイサービス施設を開くためだった。
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 今月、長崎市矢上町に「リハステージ矢上」をオープンした。買い物や調理、入浴など日常生活の中で一度は諦めた行動を、再び自らできるようになるためのリハビリを提供する。

 例えば買い物のリハビリの場合、まず利用者が「歩く」「人をよける」「棚から品物を取る」などの動作のうち、どこに問題があるかを把握。その上で、施設内の機器を使って個別に身体機能を高めるためのトレーニングをしたり、近くのスーパーにスタッフと出掛けて実際に買い物をしたりしながら、生活能力の維持や回復を目指す。
 浦川さんは「買い物を誰かが代行するのではなく、自分で選んで自分で買えるように。諦めたことが、もう一度できる喜びを感じてほしい」と願う。
 午前、午後の半日ずつ利用が可能で、入浴介助も提供。介護事業の合間(午後0時半~1時半)には、住民らに1回500円でトレーニング機器を貸し出す。カフェをイメージした内装にしたのも、黒を基調としたデザインのTシャツを制服にしたのも「介護デイサービスのイメージを変えたい」との思いからだ。今後は飲食提供も予定しており、浦川さんは「お年寄りから子どもまで集まる地域の居場所にしたい」と語る。