亡き総監督への思い胸に  県下一周駅伝・五島チーム 島のスポーツ振興に尽力…恩返しのたすきリレー

長崎新聞 2024/01/27 [10:25] 公開

第58回大会(2009年)で総合2位となり、選手らから胴上げされる野間田さん=長崎市、長崎新聞社前

第58回大会(2009年)で総合2位となり、選手らから胴上げされる野間田さん=長崎市、長崎新聞社前

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 口癖は「五島に明るいニュースを届けたい」だった。
 長年、五島チームの総監督として“走り回った”野間田勲さんが、コロナ禍で県下一周駅伝大会が中止されていた2021年7月、66歳で他界した。第1日の26日、チームは恩返しを胸に、元総監督が愛した「黄緑のたすき」を気持ちを込めてつないだ。
 野間田さんは五島市(旧福江市)出身。富江町役場、五島市役所に勤め、04年以降は「スポーツ振興課」一筋で島の発展に全力を注いできた。県下一周は1993年に監督として初出場。2009年に若手とベテランの力を融合させ、チームを離島勢として歴代最高となる総合2位に導いた。ゴール後、選手たちに胴上げされ、会心の笑顔で宙を舞った。
 県下一周への思い入れは誰よりも強かった。自宅では部屋にこもり、ノートに選手の成績や練習メニューを書き込む日々を送った。島外の選手にもこまめに連絡して状態を把握。コミュニケーションを絶やさずに信頼関係を築いた。大会が終わっても、翌週からは「来年の配置はどうしようか」と考える日々がスタート。妻の利惠さん(68)が「家で駅伝の話はしなかったけど、とことん追求する人だった。少しあきれていた」と苦笑いするほどだった。
 大会期間中の選手への寄り添い方も熱かった。最終日1区のスタートは午前7時45分。選手と一緒に同3時に起床してアップにつき合った。20年以上の交流があり、今回も壮年で出走予定の田口政彦さん(52)は「選手を信じてくれるから、それに応えたいと思える人だった」と振り返る。
 14年の長崎がんばらんば国体開催に尽力。「燃え尽きた」と翌15年に59歳で五島市役所を退職、同時に総監督から身を引いた。体調の異変に気付いたのは20年の夏。急性白血病だった。その後は入退院の繰り返しとなったが「まだ体は動ける。動かすようにする」と自宅にフィットネスバイクを購入。最後まで生きる希望を失わなかった。
 亡くなる2週間前、田口さんらは自宅にお見舞いに行った。昔話などであっという間に時間が過ぎた。帰り際、田口さんは「また来ますね」と握手をした。その言葉とは裏腹に、最後になりそうな気がして涙がこぼれた。「何で泣くのよ」。野間田さんとの会話は、これが最後になった。
 葬儀には多くの人が訪れた。そこで利惠さんは、夫がどれだけ慕われてきたかをあらためて知った。「初めて見る人が多かった。知らない話もたくさんあった。いろんな人とつながっていたんだなって。あの人らしいですよね」
 第1日、五島チームは序盤で先頭争いを繰り広げるなど5位と好発進した。さらなる上位進出に向けてこれからが正念場だ。田口さんがかみしめるように言葉をつないだ。「まだまだ五島はやれる。だから天国から見守ってほしい。いつもみたいにそっと背中を押してほしい」