14日は赤穂浪士討ち入りの日 寺坂の墓伝説 なぜ五島に? 久賀島・栄健寺

長崎新聞 2023/12/14 [11:20] 公開

栄健寺のそばに建つ墓を案内する小島さん。このうちの一つが寺坂吉右衛門の墓と伝わる=五島市久賀島

栄健寺のそばに建つ墓を案内する小島さん。このうちの一つが寺坂吉右衛門の墓と伝わる=五島市久賀島

  • 栄健寺のそばに建つ墓を案内する小島さん。このうちの一つが寺坂吉右衛門の墓と伝わる=五島市久賀島
  • 五島市久賀島にある栄健寺
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 14日は、赤穂浪士が藩主浅野内匠頭の敵討ちとして吉良上野介邸に討ち入った日に当たる。五島市久賀島の蕨町福見地区にある栄健寺には、四十七士の一人、寺坂信行(通称・吉右衛門)の墓と伝わる墓碑がある。なぜ遠く離れた五島列島に伝承が残るのか。地元でも理由は不明という。
 寺坂は赤穂藩の足軽で、討ち入り直後に同志と別れ関係先に事件を伝えたとされるが、逃亡説もある。処分は受けず、約40年後に江戸で83歳で死去した。全国各地に寺坂の墓と伝わる伝承が残されている。
 福見地区に暮らす小島満さん(71)によると、史料には「寺坂は、寺の住職をしていた弟『ズイテン僧』を訪ねてきたのではないか」との記述が残る。ただ、なぜこうした伝承が生まれたかは「全く分からない」という。

 寺はかつて恵剣寺と呼ばれ、江戸前期の1657年には既にあった。1793年に火災で焼け、その後再建。五島藩の祈願所でもあり由緒ある寺だったという。住職はおらず、地元の人が管理している。
 墓は数十メートル離れた林の中に5基。この中に寺坂や内匠頭の妻らの墓があるとされるが確実な記録はない。墓に刻まれた文字も判読できず、このうちのどれが寺坂の墓かも特定はできない。
 兵庫県赤穂市立歴史博物館学芸員、木曽こころさんによると、寺坂が長崎に入った記録はなく、弟の存在も確認できないという。赤穂事件を題材にした江戸時代の歌舞伎演目「仮名手本忠臣蔵」は人気を集め、全国に広まった。物語には寺坂がモデルの人物も登場。こうしたことから「(各地で)寺坂にあやかって、伝承が生まれたのではないか」と木曽さんは推測する。
 栄健寺は歴代、高僧が住職を務めたという。そばにある小川の水は眼病に効き目があるとされ、参拝者が多く訪れた。数世帯しかない地区で、ひっそりとたたずむ寺に伝わる歴史。小島さんは「言い伝えも含めておもしろい歴史が残る島」と話した。