惜しくもメダルに届かなかったバレーボール男子の日本チームで、選手たちと同世代の長崎県出身者がスタッフとして奮闘した。対馬市生まれ、大村工高出身の坂本將眞(しょうま)(25)=日本バレーボール協会=は、スケジュール調整や事務手続きを担うマネジャーとして現地に帯同。裏方としてチームを支えた。
5日の準々決勝。観客席で試合を見守り、敗退が決まるとすぐに席を立った。「試合に負けても自分にやるべき仕事はまだある」。今後の流れを頭の中で整理しながら、足早に会場を後にした。
「代表内の全てに関わって調整するのが役割」で、練習スケジュール作成から選手や監督の会見手配、代表者会議への出席まで業務は多岐に及ぶ。常にアンテナを張り巡らせ、チームの活動が滞りなく進むように準備してきた。
協会内から代表マネジャーへの抜てきは異例だ。年齢もまだ20代半ば。その敏腕な仕事ぶりの原点は、高校時代にある。
大村工高バレー部は主将や副主将とは別に「主務」の役職があり、3年時にそれを任された。大学の体育会では一般的なポストだが、高校で採用しているところは珍しい。選手の生活管理や練習試合の調整、他校監督のエスコート。その全てを高いレベルでこなしていた。
「歴代の主務の中でも抜群に頭が切れる子だった。あいつにまとめさせておけば私の負担がかなり減る。とても信頼していた」。監督として大村工高を夏冬2度の日本一に導いた伊藤孝浩(58)=現小浜高校長=は教え子をこう評する。
「初めは他の高校に入学しろって断ったんです。有名大学に入れるくらい頭が良かったから。でも、ご両親から『この子が3兄弟で一番、大村工に合うはず』と強く薦められて。その通りだった」
坂本は全国大会で優勝や準優勝を経験した2人の兄のように、選手として大成するタイプではなかった。ただ、チーム活動が円滑に進むように統率する力に優れていた。努力を怠らず、3年時のインターハイは正セッターの座をつかんだ。他選手の模範だった。
伊藤が「將眞の頑張りを見て、監督をやってきて本当に良かったと思えた」としみじみと語ると、坂本も「兄2人を見ていて、自分も伊藤先生のそばで男を磨きたいと思ったんです。先生はよく『当たり前を疑え』と言った。正直、当時は理解できない部分もあったけれど、今はすごくよく分かる」と高校時代を振り返る。
名門校で主務を務め上げた坂本は、その後も優れたマネジメント力を発揮。日大4年時に全日本大学バレーボール連盟の委員長を任され、コロナ禍の先が見えない時期に運営を担った。日本バレーボール協会から請われ、東京五輪後の2021年11月に日本代表入りを打診されるのは自然な流れ。坂本がチームに入って以降、日本の戦績も右肩上がりに良くなった。
52年ぶりのメダルに届かなかったが、コートの外でできる限りのことはやった。「金メダルを取るチームのマネジャーは、どの国のマネジャーにも負けない業務をやらないといけないという思いでやった」。縁の下で、しっかりと戦い抜いた。
5日の準々決勝。観客席で試合を見守り、敗退が決まるとすぐに席を立った。「試合に負けても自分にやるべき仕事はまだある」。今後の流れを頭の中で整理しながら、足早に会場を後にした。
「代表内の全てに関わって調整するのが役割」で、練習スケジュール作成から選手や監督の会見手配、代表者会議への出席まで業務は多岐に及ぶ。常にアンテナを張り巡らせ、チームの活動が滞りなく進むように準備してきた。
協会内から代表マネジャーへの抜てきは異例だ。年齢もまだ20代半ば。その敏腕な仕事ぶりの原点は、高校時代にある。
大村工高バレー部は主将や副主将とは別に「主務」の役職があり、3年時にそれを任された。大学の体育会では一般的なポストだが、高校で採用しているところは珍しい。選手の生活管理や練習試合の調整、他校監督のエスコート。その全てを高いレベルでこなしていた。
「歴代の主務の中でも抜群に頭が切れる子だった。あいつにまとめさせておけば私の負担がかなり減る。とても信頼していた」。監督として大村工高を夏冬2度の日本一に導いた伊藤孝浩(58)=現小浜高校長=は教え子をこう評する。
「初めは他の高校に入学しろって断ったんです。有名大学に入れるくらい頭が良かったから。でも、ご両親から『この子が3兄弟で一番、大村工に合うはず』と強く薦められて。その通りだった」
坂本は全国大会で優勝や準優勝を経験した2人の兄のように、選手として大成するタイプではなかった。ただ、チーム活動が円滑に進むように統率する力に優れていた。努力を怠らず、3年時のインターハイは正セッターの座をつかんだ。他選手の模範だった。
伊藤が「將眞の頑張りを見て、監督をやってきて本当に良かったと思えた」としみじみと語ると、坂本も「兄2人を見ていて、自分も伊藤先生のそばで男を磨きたいと思ったんです。先生はよく『当たり前を疑え』と言った。正直、当時は理解できない部分もあったけれど、今はすごくよく分かる」と高校時代を振り返る。
名門校で主務を務め上げた坂本は、その後も優れたマネジメント力を発揮。日大4年時に全日本大学バレーボール連盟の委員長を任され、コロナ禍の先が見えない時期に運営を担った。日本バレーボール協会から請われ、東京五輪後の2021年11月に日本代表入りを打診されるのは自然な流れ。坂本がチームに入って以降、日本の戦績も右肩上がりに良くなった。
52年ぶりのメダルに届かなかったが、コートの外でできる限りのことはやった。「金メダルを取るチームのマネジャーは、どの国のマネジャーにも負けない業務をやらないといけないという思いでやった」。縁の下で、しっかりと戦い抜いた。