意識不明のまま出産…長崎の女性の数奇な半生 「奇跡の母」として一躍時の人、60年後の今は?

2024/08/05 [11:30] 公開

事故で意識不明となった女性が出産したニュースを伝える本紙記事

事故で意識不明となった女性が出産したニュースを伝える本紙記事

  • 事故で意識不明となった女性が出産したニュースを伝える本紙記事
  • 映画「愛・その奇跡」のチャリティー上映に詰めかける観客=1964年12月12日、長崎松竹映劇(現在の旧S東美ビル)
  • ケイコさん(仮名)が勤めていたキャバレーは残っていないが、現在もバーやラウンジが軒を連ねる=長崎市船大工町
大きい写真を見る
交通事故で意識不明に陥った長崎市内の女性が、眠ったまま赤ちゃんを産んだ-。60年前の長崎新聞に、こんな記事を見つけた。献身的に妻を看護した夫や前代未聞の出産を成し遂げた医療従事者の実話は、たちまち全国に広がり、書籍化、映画化までされた。“奇跡の母”として、一躍時の人となった女性。その数奇な半生を追った。

■飲酒運転で
 記事は1964年4月12日、「半年も意識不明のまま出産 世界でも初めて?」の見出しで掲載。同市のキャバレーのホステスだったケイコさん(当時25)=仮名=は前年10月、同僚女性と客の計6人でドライブに出かけ、事故に遭った。運転手の男性は周囲の制止を聞かず、飲酒運転でスピードを出した挙げ句、カーブを曲がりきれずにサクラの木に激突。ケイコさんは頭を強く打ち、意識不明の重体となった。

 市内の十善会病院に運び込まれ、一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。腹部の膨らみから、医師が妊娠に気づいたのは12月。看護を続けていた夫が子どもを望んだため、病院側が準備を進めた。臨月に向け、流動食や注射で十分に栄養を補給し、事故から190日目の64年4月10日、体重2・5キロの女児が誕生した。しかし、ケイコさんはその後も、眠ったまま-。

■苦悩する夫
 記事に興味を持ち、詳しく調べると夫が出版した手記を見つけた。それによると、ケイコさんは崎戸町(現西海市)の炭鉱マンの家に生まれ、佐世保市の洋裁学校に通った後、大阪で働いていた。そこで夫と出会い、恋に落ちた。二人で新生活を始めようと、長崎に移り住んだが、夫は職が見つからず、ケイコさんが不慣れなキャバレー勤めで家計を支えた。事故が起きたのは、二人が出会って、ちょうど1年後だった。

 当時、国内の交通事故死亡者数が1万人を超え「交通戦争」として社会問題化していた。自動車保険の補償も十分でない時代。手記によると、夫は事故の当事者から慰謝料や治療費を払ってもらえず、金の工面に苦しんだ。それでも病院の医師や看護師、近所の食堂のおばちゃん、ケイコさんが信仰したカトリックの神父らに励まされながら、父親になった。手記の感傷的な筆致に、記者もつい目頭が熱くなった。ケイコさんの出産を、長崎新聞が社会面トップで報じたことも書かれていた。

■報道陣殺到
 この記事を皮切りに、病院にはマスコミが殺到。ケイコさんの話題は、全国を席巻した。同年7月24日の長崎新聞は、松竹出身のプロデューサー・野口鶴吉氏が映画化、テレビドラマ化、レコード化に乗り出したと伝えている。夫の手記も、こうした流れで出版されたのだろう。同じ年の10月に発行し、11月にはすでに18版を重ねていた。

 映画「愛・その奇跡」は同年12月に封切り。公開に先駆け、長崎新聞社と長崎放送(NBC)が開いたチャリティー上映会が、本紙の記事になっていた。「整理の警察官まで出勤する混雑」「場内からは感動のあまりすすり泣きの声」。場内の募金箱に一夜で10万円余りが集まったとあり、反響の大きさがうかがえる。

■生きた証し
 ケイコさんは、その後どうなったのだろうか。同病院に問い合わせたが、60年前の関係者は見つからなかった。ただ病院の古い記念誌に、当時の医師と看護師、ケースワーカーの回想録があり、その後の様子がわかった。

 事故から8年3カ月後の72年1月4日、ケイコさんは同病院で一度も目を覚ますことなく、静かに息を引き取った。32歳だった。意識不明のまま出産し、長期間生存したケースは異例で、学会や専門誌で報告された。当時の院長、岩永光治さん(故人)は「偉大な生命力だ。これだけ生命を保ったのは他に例がない」とコメントしている。

 夫は、出産から2年ほどで離婚。娘を引き取り、県外で新たな家庭を築いた。病院からの危篤の知らせに「今ははっきり言って他人だから」と姿を見せなかった。ケイコさんの遺骨は、崎戸の実家に引き取られた。炭鉱が閉山し、従業員や家族のほとんどは島を出たため、家族の消息はわからなかった。

 当時の地図を頼りに、ケイコさんが勤めたキャバレーや夫が通った食堂、二人が暮らした借家の住所を訪ねたが、いずれも残っていなかった。病院は2021年に移転し、跡地でマンションの建設が進む。“奇跡の母”の足跡は、ほとんど消えつつあった。唯一の生きた証しである娘はこの春、60歳になったはずだ。