80年前の夏は祖母と3歳下の妹と3人で、自宅があった長崎市新戸町から西彼福田村(当時)に疎開していた。母は1944年12月に、腎臓を患いこの世を去った。父は同市内のトンネル掘削工事で現場監督を務めていた。
45年8月9日。疎開先の玄関前で、昼食にしようと七輪でナスを焼いていた時だった。突然すさまじい風が吹き、網の上のナスが吹き飛んだ。割れたガラスも飛んできて、妹の頭部を傷つけた。血がだらりと流れた。
住まいの目と鼻の先に土手があったので、祖母に言われるがまま、その辺に生えていたヨモギをかき集めた。祖母がもみ込み、汁を妹の傷口にかけて手当てをした。天気が悪くなったように、空はどんよりと暗くなった。
ただならぬ雰囲気を感じ取った祖母が自宅に帰ろうと言い、翌10日朝から歩いて新戸町へと向かった。疎開先の近くの港には性別の分からない腹がふくれた遺体が1体、流れ着いていた。「人間って、あげんなるとばいね」と3人で話した。この時は「原爆」など知るよしもない。ひどい爆弾が、市中心部に落ちたのだろうと思った。
浦上川を渡るため稲佐橋へ向かう途中、汚れた身なりで座り込んだり、寝転んだりする人をたくさん見た。怖かったので下を向きながら、祖母の右手を固く握って歩いた。だから、市中心部の惨状はあまり覚えていない。それでも焦げたような、嫌な臭いは今でも記憶から消えない。
橋を渡り、長崎駅前、大波止、出島を通った。松が枝町の辺りに交番があり、そこで水をもらって飲んだ。歩き疲れて喉が渇いていたので、とてもおいしかった。
自宅に戻ると爆心地から離れていたためか、何ともなっていなかった。父は水の浦町で作業中に被爆した。家が壊れた同僚や知人宅を回り、片付けなど手伝いに奔走していたそうだ。いつ父と合流できたかは覚えていないが、けががなかったのは何よりだった。
戦後は幸い、病気にはあまりかからなかった。一緒に被爆した妹は2年前に死去。長年皮膚病に苦しみ、人工透析も余儀なくされた。
20年ほど前、自宅近くの市立城山小に通っていた孫たちの折り鶴作りを手伝ううちに自分も夢中になり、今では毎日のように鶴を折っている。完成した千羽鶴を城山小などに贈るのが生きがいだ。
◎私の願い
鶴を折るきっかけになった孫たちにもそれぞれ子が生まれ、今ではひ孫が7人。鶴を折りながら、ひ孫たちのような子どもが、戦争に巻き込まれることがないようにと願っている。ありきたりだが、皆仲良く住みやすい社会こそが平和だ。