泉時夫さん(88)
被爆当時8歳、爆心地から3.1キロの長崎市外浦町(当時)で被爆

私の被爆ノート

生死を分けた一歩

2025年3月27日 掲載
泉時夫さん(88) 被爆当時8歳、爆心地から3.1キロの長崎市外浦町(当時)で被爆

 両親に姉が2人、1945年1月に妹が生まれ、6人で暮らしていた。父は44年ごろ、従軍しない代わりに数カ月間、炭鉱に働きに行っていたが、長崎市内に戻ってからは県庁の向かいにあった祖父の靴屋を手伝っていた。県庁や警察署、税関にもお得意さんが多かったと母に聞いた。
 夏休みで学校がなかったあの日。私はランニングシャツに半ズボン姿で家にいた。昼前、外から航空機が飛ぶ爆音が聞こえてきた。B29だったのだろう。音が聞こえると、すぐに外に出て空を見上げる癖がついていた。太陽の光を反射してキラキラと光る機体を見るのが好きだった。天気が良かった。いつものように空を飛ぶ機体を見ようと玄関を出て、戸を閉めようとした瞬間だった。空が太陽よりもはるかに強く光った。
 軒下にいたため、直接熱線を浴びずに難を逃れたが、もう一歩前に出ていたら、生きていなかったかもしれない。爆風が吹いたのと同時に家の窓ガラスが粉々に割れ、破片が体に突き刺さった。今も、頭と手にはガラスで付いた傷が残っている。血を流す私を、父がおんぶして近くの病院に連れて行ってくれたのを覚えている。
 ガラスを取り除いてもらった後、家にあったノートや本を手に防空壕(ごう)へ向かった。入り口辺りで座っていると、顔や背中の皮がペラペラと垂れ下がっている男性数人が入ってきた。その光景が今でも忘れられない。苦しそうな表情をしていた。周りの人は「広島にも落とされた新型爆弾だ」「米軍が上陸してくるから女、子どもは危ないぞ」などとうわさしていた。
 その日のうちに、被害が少なかった市内の父の知人宅に身を寄せた。父は長崎駅付近に住んでいた親戚の様子を見に行っていた。浦上周辺に住んでいた親戚は亡くなったと聞いた。数日後に知人宅を離れ、父の出身地熊本の天草に3カ月ほど滞在した。
 10月31日、天草から長崎に戻るため船に乗った。出発直前に妹の体調が急変し、両親と妹は病院に向かい、私は2人の姉と3人で長崎に戻った。妹は栄養失調だったのだろう。首も据わらないまま次の日に亡くなった。
 長崎に戻ってからは、当時の平戸町のアパートに住んだ。父は天草から戻ってすぐに脳出血を患って左半身の自由が利かなくなり、1947年2月に亡くなった。
       

◎私の願い

 狭い地球の中で、ほかの国を脅すために核兵器を持っているのは、本当にばからしいことだ。核保有国の為政者は、長崎や広島の原爆資料館を見るべきだ。原爆のすさまじさを理解した上で、核を放棄する決意を固めてほしい。

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