平山虎雄さん(87)
被爆当時8歳 爆心地から3.5キロの長崎市滑石町(当時)で被爆

私の被爆ノート

散髪中にガラス片

2025年3月12日 掲載
平山虎雄さん(87) 被爆当時8歳 爆心地から3.5キロの長崎市滑石町(当時)で被爆

 あの夏、わが家は父が兵隊に取られ、私と母、妹、祖父と叔母の5人で、滑石の今と同じ場所で暮らしていた。私は西浦上国民学校3年生だった。防空頭巾を腰に下げて通ったのを覚えている。
 8月9日は夏休みで、叔母に連れられ、理容店に行っていた。妹も付いてきていた。店は自宅から道ノ尾駅に通じる道の途中にあり、表側は大きなガラス窓だった。前には大きなクスノキがあった。
 その頃の私の髪形は「坊ちゃん刈り」だった。半分ほど刈ってもらったところで、突然ピカッと光り、すさまじい音が響いてびっくりした。爆風に襲われ、粉々に割れた窓ガラスの破片が飛んできて頭や首に刺さった。ぼうぜんとして、一瞬「自分は死んだ」と思った。だが、不幸中の幸いと言うべきか、私も叔母も妹もけがは軽くて済んだ。
 私たち3人が外に出ると、あちこちの家から火の手が上がっていた。自宅に戻る途中、怖くて近くの防空壕(ごう)にもぐり込み、しばらく様子をうかがった。壕にはたくさんの人が避難していた。
 午後になってやっと家に戻れた。納屋はかやぶきの屋根がV字にへこんでつぶれていた。母屋は無事だったが、室内はすすが一面に飛び散っていた。天井からつるしていた電球が、ねじ込み式のソケットから外れて畳の上に落ちていた。不思議なことに電球は割れていなかった。
 畑に出ていた母が程なく戻ってきたので、ほっとした。母は芋づる起こしをしていたが、畑のわきに水量があまりない川があり、とっさにそこに伏せて難を逃れたという。
 叔父は茂里町の三菱長崎製鋼所で働いていた。親類や近所の人たちが探しに行ったが、遺体で見つかり、担架に乗せられて戻ってきた。全身に真っ赤にやけどを負っていた。顔や腹が特にひどくただれていたので、正面から熱線を浴びたのだろう。家の裏の竹やぶで叔父を火葬した。
 戦争が終わり、父が戦地の中国から戻ってきた時には、うれしくて涙が出た。半分だけ刈ったままだった私の髪は2週間ほど後、近所の人がバリカンで丸刈りにしてくれた。ようやくサッパリしたことも、あの夏の記憶だ。
 戦後、わが家の周辺は宅地開発が進み、風景は大きく変わった。だが、理容店の前の大クスノキは、あの日と同じ場所に今もある。

◎私の願い

 優しかった叔父を火葬した時、私はワンワンと泣いたのを覚えている。核兵器は人の命を無差別に奪い、戦争は何も得るものがない。そのことを今の若い人たちに知ってもらいたい。核兵器が一日も早くなくなり、平和が訪れてほしい。

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