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長崎市浪の平町の自宅で父、母、3歳下の弟の4人で暮らしていた。目の前は海。対岸には三菱長崎造船所があった。自宅2階には造船所で働く人たちが下宿していた。頻繁に飛行機が飛んできて「敵機来襲」を知らせる鐘の音や空から爆弾が落とされていたのをかすかに覚えている。空襲による火災も時々あった。
幼かったので記憶はほとんどない。嫌々ながら頭巾をかぶせられ、大浦天主堂近くの防空壕(ごう)にしょっちゅう避難していたのはうっすらと覚えている。「眠たい」「行きたくない」と駄々をこねていた。
空襲が激しくなってくると、上戸町に疎開した。両親の知人の家だったと思う。押し入れに隠れるなどしていた。米軍が原爆を落とした8月9日は母と弟とこの家にいたそうだ。「ピカピカッ」と強烈な光が襲ったことだけを覚えている。父が三菱のどこに勤めていたか、どこで被爆したかは覚えていない。家族全員大きなけがなどはなかった。数日して自宅に戻ったようだが、建物も無事だった。
戦後、浪平小に通った。学校には原爆で親を亡くして南山手町の児童養護施設「マリア園」で暮らしていた子どもも多くいた。とにかく食べ物がない貧しい生活だったが、家族がみんないるだけ幸せだった。母は朝鮮半島で暮らした経験があり、現地にはカトリック信者が多かったため、カトリックに関心があるようだった。家族は仏教徒だったが、カトリック系の純心中に入れてもらったことが「人生の節目」だったと思う。
中学では、被爆医師の永井隆博士の次女・茅乃ちゃんと同級生で、仲が良かった。国会議員など、いろんな人が「お父さんの話を聞きたい」と訪ねてきていた。逃げたり隠れたりしていた茅乃ちゃんの姿が印象に残っている。
卒業後、大人になっても教会に通い、コーラスの趣味を通じて夫に出会い、結婚し、洗礼も受けた。夫も被爆者で爆心地から2キロの地点で被爆した。体にはケロイドが残り、原爆で家族を奪われ、苦労してきたようだった。だからこそ人の痛みが分かると、夫は沖縄や熊本の療養所で暮らすハンセン病患者と交流したり、フィリピンの子どもたちを支援したりしている。
夫のような行動はできないが、今でも若くして親を亡くした子どもに会うと長く付き合ってあげたいと思う。教会などで会うとお菓子をあげるなどしている。
◎私の願い
食べ物のない貧しい時代に育ったが、幸い家族全員が無事だった。周りには親や友達を失った人が多くいた。毎年8月9日になると当時を思い出し、祈るために手を合わせる。全てを奪ってしまう戦争は二度とあってはならない。