阿久津フサさん(99)
被爆当時19歳 爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

火を避け浦上川上る

2025年2月13日 掲載
阿久津フサさん(99) 被爆当時19歳 爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目(当時)で被爆

 長与村(現西彼長与町)本川内郷で母と祖母、3歳年下の妹、疎開していた姉と姉婿と暮らしていた。父は早くに亡くなり、兄2人は出征してビルマ(現ミャンマー)にいた。
 私は稲佐国民学校に勤め、2年生を受け持っていた。男性の先生方はみんな兵隊となり、教頭が1人いるだけ。同僚は女性ばかりだった。同校には大きな地下室があり、空襲警報が出ると、みんなで入って避難していた。
 8月9日は夏休みで、子どもたちは学校にいなかった。朝から空襲警報が出たが、その後解除となり、午前11時ごろは先生方と中庭で休んでいた。
 「ほら、稲佐山のところに飛行機が行ったよ」。そう言った途端、パーンと爆弾が破裂した。次に気が付いた時は木造校舎の下敷きになっていた。材木が身体の上に押しかかり、「助けてくれー、助けてくれー」と叫んだが、そばには誰もいない。1人で一生懸命押しのけた。
 運動場に防空壕(ごう)があったので脱出後に向かうと、そこにはほかの先生方がいた。「あら、松浦さん(旧姓)はどこにいたの。顔が真っ赤よ。血だらけだよ」。声をかけられ、顔に無数の傷がついていたことに気が付いた。しかし、周囲に血を拭くものは何もなかった。
 そうしている間に、運動場にはたくさんの人が集まっていた。姉婿も私と一緒に家に帰ろうと学校に寄ってくれた。私は「少し傷ついてるけど、迎えに来てくれてありがとう」と伝えた。
 帰り道、辺りは火事で燃えており、いったん淵神社の上の山に歩いて登った。そして神社の階段を下り、さらに浦上川に下った。道路は火が上がっていて通れなかったため、私たちは川の中を進んだ。川には水を求める人たちがいた。彼らが私の足を引っ張るように、「水くれー」「助けてー」と言っていたことがひどく印象に残っている。そんな中で、ずっと川を上っていった。
 大橋で陸に上がり、今度は鉄道の線路に沿って歩くことにした。しばらく行くと、汽車が来た。乗ろうとしたが、「あなた方は元気だから乗ってはいけない」と言われてしまい、それからまた2人で歩いて、ようやく本川内郷の家にたどり着いた。
 学徒動員で爆心地付近で働いていた妹はあの日、亡くなった。

◎私の願い

 犠牲者約7万4000人。当時の学級の子どもたちは無事だったと記憶するが、命を落とした子も大勢いた。あの時に比べると、今の時代の子どもたちは幸せだと思う。戦争がない平和な世の中になることを望んでいる。

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