時津村野田郷(当時)にある祖父の家の裏山で、涼みやぐらを作ろうと作業していた。突然ピカーッと稲妻のような光。そして「ドローン」と、引っ張ったような不気味な音がした。その後、木の葉を揺さぶる気持ちの悪い熱風が来た。きのこ雲がお天道さまを遮り、辺りは薄暗くなった。
広島と同様、長崎にも新型爆弾が落とされ、壊滅的であることなどが徐々に分かってきた。時津にも負傷者がトラックの荷台に横積みの状態で運ばれてきた。臨時救護所となった時津国民学校や萬行寺などに収容されたが、多くの人が手当てのかいなく亡くなった。
8月14日ごろ、時津国民学校から遺体を運び出す仕事に借り出された。私が入学した10年前は新校舎で、木造2階建て、コの字形の立派な建物だった。校舎の1階も2階も、そろばんの玉のように遺体が並んでいた。土葬をする「疱瘡(ほうそう)墓」までは約2キロの道のり。死んだ牛や馬を埋めていたそうだ。
担架で3回運べば帰らせてもらえたので、砂利道をわら草履で3回往復した。子どもの遺体だったら2人で、大人だったら4人で担いだ。重かったし臭いが激しく、うじ虫が湧いている遺体もあった。役目とはいえ、16歳の私には酷な仕事だった。
8月20日に父母と3人、元村郷の畑で芋掘りをしていたときのことは今も忘れない。近くには「疱瘡墓」があった。少し離れて作業をしていた父が、通りかかった青年に「どこまで行くとな」と声をかけた。背には誰かをおんぶして、毛布をかぶせていた。
青年の母親が時津国民学校に運ばれた末に、亡くなっていたことが役場で分かったとのこと。やっと捜して土葬された土の中から亡きがらを掘り出し、背負って長崎市へ帰るところだったらしい。
青年は、きゃしゃな体つきで二十歳に満たないくらい。けがはなさそうだった。被爆から約10日。いろいろ捜し回ったのだろう。遺体の傷みはひどかったはずで、臭いもしただろうに。それよりも「見つけ出して良かった」「家に連れて帰らんば」と、無我夢中だったように思えた。
青年が歩き出すと父は「お前たちも芋掘りは止めて、手ば合わせろ」と言った。父母も私も姿が見えなくなるまで手を合わせた。
◎私の願い
土葬された母を掘り返し、背負って連れ帰る―。今では考えられないことだが、そういう親孝行な人もいたことを知ってほしい。世界ではいまだに戦争が続いている。難しいことは分からないが殺し合いは絶対にしてはならない。