長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています
西脇金一郎さん(89)
被爆当時10歳、爆心地から8.5キロの西彼茂木町(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

学校で焼かれた遺体

2024年12月19日 掲載
西脇金一郎さん(89) 被爆当時10歳、爆心地から8.5キロの西彼茂木町(当時)で原爆に遭う

 長崎市桜馬場町(当時)の自宅で母と5人のきょうだいと暮らしていた。8人家族の長男で、父は出征中。夏休みは西彼茂木町(当時)の母方の祖父母宅に1人で遊びに行っていた。海岸に近く、隣には西洋風のホテルがあった。
 あの日は午前10時ごろから、祖父と玄関先に座って草履を作っていた。祖父の見よう見まねで手を動かしていた時、強烈な閃光(せんこう)が差した。直後、ガラス戸がガタガタとけたたましい音を立て、漁港に停泊していた緑の漁船は真っ白に見えた。自分の近くに爆弾が落ちたと思った。怖かった。
 兵隊さんから「防空壕(ごう)に入れ」と言われ、祖父母とホテルの裏山の壕に逃げ込んだ。幸い、全員けがはなかった。壕を出たのは午後1時ごろ。長崎の方を見ると、山から煙が上がっていた。真っ黒な空に昇った柿色の太陽を今でも覚えている。「長崎は全滅」と兵隊さんが言った。母やきょうだいは亡くなり1人になったと思い、さみしかった。
 茂木町のいとこから聞いた話だが、午後3時を過ぎると、市内の方から茂木街道をはだしで歩いてくる人がいた。ガラスで足などをけがし、血だらけだったという。夜は祖父母宅に戻った。塀が壊れていたが、家の中は大丈夫だった。
 翌日、母がきょうだいを連れて自宅から避難してきた。全員、無事だった。家族が生きていてうれしかった。自宅の様子を、母は懸命に話した。ガラス戸が割れ、中の物はごちゃごちゃ。母は台所にいて、寝かしつけていた3歳の妹を囲うようにガラスが飛び散った。残りのきょうだいは警戒警報が鳴り、庭に掘った壕に逃げていたという。
 茂木町で終戦を知り、家族と自宅まで歩いて帰った。数日後、伊良林国民学校の運動場に遺体を載せた大八車がやってきた。大人たちがくわで遺体を持ち上げ、あちこちで焼いていた。自分が見た中で一番悲惨な光景だった。異様なにおいと煙は家の中まで入ってきた。空腹に耐えられず、異臭を嗅ぎながらご飯を食べたことは忘れられない。
 戦後、自分を含めて家族は幸い、大病を患っていない。被爆体験者に交付される第2種健康診断受診者証は2003年に取得した。

◎私の願い

 こういう時代もあったのだと、少しでも知ってほしい。被害だけではなく、日本がしたことも忘れてはいけない。戦争をしないことが一番大切。これが平和につながる。子どもたちには広い世界を学んでほしい。

ページ上部へ