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西彼茂木町田手原名(当時)の農家の7人きょうだいの三男として生まれた。10歳の時に父親が病死。長男と次男は召集され、自分が父親代わりで弟や妹たちの面倒を見た。母親と農作業に当たる傍ら青年学校で軍事訓練を受け教育勅語を暗記した。戦争がひどくなると夜中に集落に焼夷(しょうい)弾が落とされた。日本は負けるかもしれないと思ったが、軍国主義の真っただ中で怖くて口には出せなかった。
あの日は仲間たちと近所の山に木の伐採に向かっていた。すると突然目がくらむような青い光が見えて、これまでに体験したことがない圧が胸に迫った。すぐに地面に伏せるとその瞬間に熱い爆風が襲ってきた。長崎の方を見ると英彦山(ひこさん)の上からどんどん大きくなるきのこ雲が見えて大変なことが起きたと思った。
家族も家も無事だった。夜中も新聞が読めるほど明るく長崎が大火事になっていることは分かった。数時間すると燃えかすと一緒に灰も飛んできて集落は真っ白になった。栽培している農作物も白く染まったが、当時は放射線の影響は分からなくて食べた。
数日後、終戦による次男の帰宅に伴い列車で運ばれる荷物を取りに最寄りの長崎駅まで向かった。原爆の影響で列車は来ず、復旧がいつになるのか分からなかったので何度も長崎駅に行った。街並みは変わり果て、異様な匂いがする中、亡くなった人を焼いている光景を至る所で目にした。多くの命を奪う戦争に向かった国への怒りが湧いた。
翌年から体がだるくなり、医療機関を受診すると「血圧が高過ぎて80歳のおじいさん並み」と言われた。この頃には放射線の影響を何となく知っていたから、これもその影響だろうと思ったが当時はなすすべはなかった。仕事をしたくてもできない日々が続き、その間に髪も歯も抜け落ちた。歯の治療をしようにもお金がなく青春の20代をほとんど歯がない状態で過ごした。夏になると無性に背中がかゆくて体がむしばまれていくような、えたいの知れない恐怖に襲われた。
体調が改善すると製菓屋で修業をして結婚。県内でパン屋や飲食店を営むなどして必死に生きてきた。戦争がなければもっと違った人生を送れたと思う。田手原名は国指定の被爆地域ではないため、被爆者に準じた健康診断が受けられる「第一種健康診断受診者証」を1982年に取得した。
◎私の願い
争ってもいいことは何一つない。長崎を最後の被爆地にするために政治に携わる人らは武力ではなく話し合い、分け合う姿勢で臨んでほしい。自分の欲望のためではなく世界を平和にするために知恵を使って、戦争がない世界にしてほしい。