爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆
寒い日だった。身に着けられるだけ服をまとい、荷物いっぱいのかばんを両手に提げた。1944年から45年にかけての冬、母の出稼ぎのため住んでいた台湾から、母と赤ん坊の妹と3人で、佐世保に引き揚げることになった。父は既に亡くなっていた。
乗船前、台湾の港にいた憲兵から荷物を全部見せるように言われた。かばんをひっくり返すと、次は羽織っていた毛皮のコートの裾をナイフで切られた。何かを隠し持っていると疑われたのかもしれないが、残忍な戦争の記憶として脳裏に焼き付いている。
引き揚げ後、一時は母の地元である佐世保の早岐で暮らしていたが、食べるものがなく生活は困窮した。6月ごろ母は仕事を探すため、私と妹を連れて長崎市に移住。中新町にある木造長屋の一室を借りた。妹は水の浦町に住む夫婦へ里子に出された。
8月9日。家の近くで青空を見上げていた。「パンッ」。赤い閃光(せんこう)が空に瞬いた。「大きな花火みたい」と思いじっと眺めていると、母が慌てて家の中から出てきて、さっと私の手を引いた。家に連れ戻され、すぐに母の大きな体が覆いかぶさった。家はごう音を立てて揺れていた。幸いにも2人にけがはなかったが、その日は母から外出を禁じられた。「何か大きなことが起こったんだな」。幼心にそう感じていた。
翌朝、妹の安否を確認するため里親の家に向かった。出発前、母におんぶされ強い口調で言われた。「絶対に顔を上げてはいけないからね」。まちの惨状を見せたくなかったのだろう。駆ける母の背中にずっと顔をうずめていたので、どこを通ったのか、どれくらい時間がかかったのか全く分からない。
それでも鮮明に覚えていることがある。鼻を突く強烈な異臭、人々のうめき声、肌をまとう熱気。視覚以外から伝わる不快感は、今でも体から拭えない。
妹は無事だった。里親の家で一晩を過ごし、翌朝、母と2人で自宅に戻った。その間も顔は上げなかった。
終戦後、母に言われた。「原爆に遭ったことは誰にも言ってはいけない」。きっと、周囲から差別的に見られるのを恐れたのだろう。この教えを50年以上守り続けた。1990年7月に亡くなった夫にさえ、被爆した事実を伝えなかった。被爆者健康手帳を取ったのは99年11月だった。
<私の願い>
被爆者が高齢化し、世界の核情勢は悪化している。私が味わったような苦しい人生を子どもたちに経験させてはいけないとの思いが芽生え、今年4月から福岡市内の小学校で戦争と原爆の証言活動をしている。今は、それが私の役目だと思う。