伊丹洋太郎さん(83)
被爆当時4歳 爆心地から2.7キロの下西山町で被爆

私の被爆ノート

血の筋のような光

2024年11月28日 掲載
伊丹洋太郎さん(83) 被爆当時4歳 爆心地から2.7キロの下西山町で被爆

 まだ幼く、周りの大人が残酷な場面を見せないようにしてくれたのか、覚えていることは少ない。断片的。怖かったという記憶もない。聞いた話も混ざっていると思う。
 当時、両親と妹、伯母とその息子と6人で暮らしていた。8月9日午前11時2分は、母と伯母と自宅2階にいた。部屋の中にいるのに、辺りがパッとピンク色に明るくなった。そう思った途端、灰色にもなった。この順番は逆かもしれない。強い風が吹き、ガタガタと揺れる階段を下りたことは覚えている。
 外に出たとき、玄関でガラスが大量に刺さった戸板が倒れた。もし、これに当たっていたら私は助かっていなかっただろう。見上げると、暗い空の中に太陽があった。その光は、赤い血の筋のようだった。
 普段からよく防空壕(ごう)に逃げていた記憶があるのでこの時も駆け込んだと思う。爆心地付近では火の手が上がっていたが、わが家は猛火を逃れた。ただ爆風で屋根が飛んでいった。だから、雨が降った時は2階の畳の上に鍋とか洗面器を置いた。
 父は、道ノ尾から爆心地付近を通って帰ってきたので、足を少しやけどしていた。母の実家が浦上辺りにあり、父と母方の祖父が、別の伯母らを探しに行った。真っ黒になった遺骨を手提げ金庫に入れて帰ってきた2人は、焼け野原で悲惨なまちの様子を見てきたのだろうが、この時もこれ以降も、私には一切その話をしなかった。
 ちまたで米軍による敵前上陸のうわさが広まり、家族で大八車に家財道具を積んで、西彼矢上村の親戚宅に身を寄せた。妹は私より3歳年下でまだ小さかったので母におぶられていたはず。だから私は4歳ながら歩いて日見峠を越えた。数日たち、日見トンネルを通って自宅の荷物を取りに行った。父の自転車の後ろに乗っていたのだが、途中で倒れ、けがをして泣いた記憶がある。
 それから南島原市の親戚宅に身を移し、製材所の小屋のような場所に1年ほど住んだ。そばに米軍が駐留していて、父は辞書を片手に話をしたり、私もお菓子をもらったりして交流した。駐留から引き上げる際は、ジープの窓から大きな声で母の名前を呼んでくれた。米軍兵は必ずしも紳士的な人ばかりではなかっただろうが、当時関わった人たちにはよい印象を抱いている。怖くなかった。

◎私の願い

 長年、高校の物理教諭をしてきた。8月9日は自主登校とし、被爆体験も語ってきた。「なぜ戦争をするんですか」と質問した女子生徒がいたのをよく覚えている。断片的な記憶でも語ることで、人々が平和を願う気持ちをつないでいきたい。

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