平野良枝さん(105)
被爆当時26歳 爆心地から4.6キロの長崎市梅香崎町で被爆

私の被爆ノート

母の背中一面に破片

2024年11月14日 掲載
平野良枝さん(105) 被爆当時26歳 爆心地から4.6キロの長崎市梅香崎町で被爆

 100歳を超え視力を失い、記憶があいまいな部分も多い。これまで家族に伝えて記録してきた体験談も提供し、取材に応じた。
 1945年。夫は出征し、長崎市梅香崎町に夫の母と2歳の娘の3人で暮らしていた。会社の事務員だったが、8月9日は午前11時ごろ家に戻り、昼食の準備をしようとしていた。間もなくすると、閃光(せんこう)と同時にものすごい地響きがした。家中の窓ガラスが割れ、吹き飛んだ。母はとっさに娘をかばい、背中一面に破片が突き刺さった。
 娘は空襲警報が鳴ると、自分でおんぶひもを持ってきて母に背負われるようにしつけられていた。この時も血だらけの母の背中に泣き叫びながらしがみついた。「おばあちゃんは大けがをしてるから」と言っても離れず、気丈な母はガラスが刺さったまま娘を背負った。
 いつもは防空壕(ごう)がある山手に向かっていたが、この時は墓に逃げた。寺町方面に向かうと、まちには逃げ惑う人があふれていた。「また大変なことが起こるかもしれない」という恐怖から、墓石の下にあった地下の納骨堂で朝まで過ごした。
 母の背中の痛みがひどく、かかりつけの病院に向かった。到着すると、病室だけでなく、廊下やあちこちで多くの人がうめき声をあげていた。原爆によるやけどで男女の区別もつかないほど真っ黒になった人、溶けた皮膚がぶら下がっている人もいた。母のけがについて医師からは「そのくらいの傷は後回しだ。もっとひどい人がいる」と言われ、墓に戻った。
 体に刺さったガラスを私が一つ一つ取り除くと、母は「浦上の方がひどかげな」と知り合いを心配し、捜しに出かけていった。夜に帰ると「長崎駅から向こうはひどか。地獄のごとある」と言ったきり、寝込んでしまった。
 長崎にはいられないと思い、南高愛野村(現雲仙市愛野町)の親戚を頼ることにした。持てるだけの家財道具を手に一晩中歩き、翌日の夕方着いた。着物と引き換えに納屋の2階に泊まらせてもらった。半月ほどいたが、いつまでも置いてもらうことはできず長崎に帰った。
 戦地から夫が戻ったのは9月。満州(現中国東北部)を6月に出て、歩いて朝鮮半島の釜山にたどり着いたらしい。もう少し早ければ被爆していたかもしれない。運命は分からないものだ。

◎私の願い

 1964年に母が亡くなった。火葬すると、骨だけでなくガラスがあった。「あの日」からずっと痛かったんだろうと思うと、涙が止まらなかった。戦時中だけでなく、戦後も苦労が多かった。戦争は絶対にしてはいけないと強く思う。

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