川上正德さん(81)
被爆当時2歳、爆心地から4.4キロの長崎市大浦元町(当時)で被爆

私の被爆ノート

戦争の悲惨さ後世に

2024年10月24日 掲載
川上正德さん(81) 被爆当時2歳、爆心地から4.4キロの長崎市大浦元町(当時)で被爆

 当時2歳。あの日のことは覚えていないため、母から聞いた話になる。
 長崎市大浦元町(現在の八景町)に母と住んでいた。昼寝をしていたところ、突然ピカッと光り、台所の窓が割れた。母は私を背負い、数メートル先にある防空壕(ごう)に急いで入った。この防空壕は今でも残っている。高台にあったからよかったのだろう。2人ともけがはなかった。
 父は松山町のガラス工場で働いていたが、9日は現在の浜町付近に仕事で出かけて無事だった。兄は旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)1年生だったが、甑岩(こしきいわ)(現在の田手原町付近)で戦車壕を掘っていたので無傷。仁田国民学校で勤務していた姉も被害を免れた。皆が無事だったのは奇跡だと思う。
 中学2年の時に親が被爆者健康手帳を取ってくれた。姉は「結婚に差し支えるから」と初めは申請していなかったが、米原爆傷害調査委員会(ABCC)の記録などを基に後から手帳を取得した。未婚女性の多くは「結婚できないかも」と心配していたのを覚えている。兄は被爆時の状況を証言できる人がおらず、手帳を取得できなかった。
 県立長崎東高卒業後は長崎市役所に入庁し、原爆被爆対策部調査課にも勤務。被爆50周年の1995年に向けて、平和祈念式典のプログラムに献水式を追加するなど式典内容を再検討する業務にも携わった。50周年を記念して作られた歌「千羽鶴」は、歌詞を全国から募集して作曲は同市出身の作曲家、大島ミチルさんに依頼した。毎年、式典で歌われ、毎月9日には防災無線で放送され、引き継がれているのは喜ばしい。
 現在は同市職員OBらでつくる県市町村職員年金者連盟長崎支部の支部長に。長崎、西海、西彼長与、時津の2市2町の元市町村職員の被爆体験記を募集して、冊子にしている。被爆した知り合いが病気になったり、亡くなったり、被爆者なき時代が刻々と迫っていることは身に染みて感じている。だからこそ、今のうちに文字に起こし、戦争の悲惨さを後世に残しておかなければいけないと思う。
 幼かったこともあり、私は覚えていることが少ない。父は中学3年の時に63歳で、母は42年前に80歳で亡くなった。兄も姉ももういない。今思えば、あの日の出来事についてもっと話を聞いておけばよかった。

◎私の願い

 世界各地で戦争や紛争が起きているが、ただちにやめてもらいたい。核兵器の使用や威嚇にも反対だ。戦争は人を殺す。殺すということはこの世で最も悪いこと。平和な世界になることを心から祈り、被爆体験を後世に残していく。

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