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若松多枝子さん(89)
被爆当時9歳 爆心地から2.6キロの片淵3丁目で被爆

私の被爆ノート

意識ない姉に寄り添い

2024年10月11日 掲載
若松多枝子さん(89) 被爆当時9歳 爆心地から2.6キロの片淵3丁目で被爆

 8月9日午後。治療をしてもらった片淵の兵舎で隣のおばさんをしばらく待っていたが合流できず、結局、1人でとぼとぼと自宅に戻った。
 夕方、報国隊員として築町の貯金支局に行っていた三姉の千枝子姉ちゃん=当時(13)=が家に帰ってきた。聞けば、帰宅途中に見えた飛行機が高度を下げたため、とっさに同級生2人と道路の側溝に身を潜め、助かった、と。側溝に入った直後、爆音が響いたという。
 2日後、母はまだ戻ってきていない次姉の政子姉ちゃん=当時(15)=を捜しに行くことにした。おにぎりと庭のキュウリを風呂敷に包み、水筒にはドクダミ草を煎じた飲み物。私は千枝子姉ちゃんと一緒に防空壕(ごう)で待つことになった。どのくらい待っただろうか。近所の人が防空壕にやって来て、言った。「(政子姉ちゃんが)担架で運ばれてきた。すぐに家に戻りなさい」。死んでしまったと思い、走って帰った。
 原爆が投下されたあの日、政子姉ちゃんは見習い看護師として長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)の眼科の診療室にいた。母には「病院は全滅」という話も入っていたようだ。室内にいた同僚数人が亡くなる中、政子姉ちゃんは生き延び、母が奇跡的に捜し出すことができた。
 家の中で寝かされていた政子姉ちゃんの意識はない。千枝子姉ちゃんと一緒にわんわんと泣いた。「大丈夫よ」。母も泣きたいはずだったが、泣きじゃくる2人に対し、そう言い続けていた。
 政子姉ちゃんの意識が戻ったのは3カ月後くらいだと思う。その間、私はそばから離れなかった。のど付近にガラス片が刺さっている姿が忘れられない。「爆弾のせいで政子姉ちゃんが死んでしまう」とずっと心配だった。
 終戦から2カ月後、縁側に座っていると、予科練で愛媛県宇和島に行っていた兄=当時(18)=が、にこにこ顔で帰ってきた。戦後の食料は母と兄が調達。近所のおばさんの親戚が島原方面にいた縁でそちらに出向き、着物と米を物々交換。母の着物は全てなくなった。
 母も兄も苦労を口にしない人で、我慢強く、他人を非難しなかった。「人に優しくしなさい」が母の口癖。私も姉ちゃんたちも偶然や奇跡が重なって生き残ることができた。開戦前に病気で亡くなった父が家族みんなを救ってくれたと思っている。

◎私の願い
 なぜ人間が人間を殺す兵器を造るのか、理解できない。身内が苦しんでいないから分からないかもしれないが戦争は絶対にだめ。若い世代が平和活動に懸命に取り組み、ありがたいと思うと同時に自分は何をしているのかと思うこともある。

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