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若松多枝子さん(89)
被爆当時9歳 爆心地から2.6キロの片淵3丁目で被爆

私の被爆ノート

優しかった兵隊さん

2024年10月10日 掲載
若松多枝子さん(89) 被爆当時9歳 爆心地から2.6キロの片淵3丁目で被爆

 夏休み中は近くの寺に子どもが集まり勉強をしていた。あの日は午前に空襲警報が解除。いつものように寺に向かった。でも、境内には誰もいない。寂しくて、そのまま帰ることにした。もし、誰か1人でもいたら一緒に遊んでいたはず。そして、そこで爆風に吹き飛ばされて-。
 家に戻ると、母はかまどにまきをくべていた。私は5人きょうだいの末っ子で姉たちは不在。1人で縁側に座っていると、かすかに飛行機の音が聞こえた。「日本の偵察機かな」。そう思ったが、虫の知らせか、近くにある頭巾を無意識にかぶっていた。
 母のいる台所に移ろうとした瞬間、爆音が響く。引き戸の分厚いダイヤガラスが割れ、破片が飛んできた。とっさに左手で顔を覆う。指と指の間の血管部分にガラスが刺さり、流血した。そのまま、母の元に駆け寄る。抱き締めてくれた母の白い服が真っ赤に染まった。母は左手のけがに気づくと、玄関に張っていた黒い幕を破り、腕に巻き付けて止血してくれた。
 しばらくすると、隣のおばさんが「子どもがけがをした」とやって来た。まだハイハイ歩きの赤ちゃんで名前は「チエコちゃん」。顔に傷を負い、母が治療をしてあげた。
 どこからか「兵隊さんが治療をしてくれているようだ」との情報が聞こえてきた。母は地域の組長のような立場だったため、周りの様子を確認しなければならず、隣のおばさんと一緒に行くことに。手をつないで歩き始めた。
 目的地は片淵にあった兵舎。細道の途中で後ろから兵隊さんが歩いてきた。おそらく金比羅山方面から歩いてきて、格好から「偉い人」だと思った。兵隊さんが通り過ぎる際、おばさんが声をかけ、頼み込んだ。「この子をおぶって連れて行ってください」。兵隊さんは無言で背中を差し出してくれた。
 兵隊さんの歩くスピードは速く、おばさんとはどんどん離れていった。おぶってもらっている間に会話をした記憶はない。兵舎に到着すると、けがをした人たちがずらっと並んでいた。兵隊さんは「おばさんが来るからここで待っていなさい」と優しく言い、その場を去っていった。
 オキシドールで治療をしてくれた別の兵隊さんは「よう我慢したね」「痛かったやろ」と話しかけてくれた。とにかくみんなが優しかった。

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