救援列車の車内は生臭く、被爆者たちが「水を水を」「痛い痛い」とあちこちでうめき声を上げていた。
大やけどの体を手で触れると皮膚がずるむけになる。被爆者が横たわる毛布やござを仲間と持ち、一刻も早く手当てが受けられるよう必死でホームに運び出した。車内で息を引き取る人もいれば、ホームに降ろしてから亡くなる人もいた。自力で行動できる人はほとんどいなかった。まさに地獄の中にいるような思いだった。
次の救援列車が来るまでの合間には、駅近くにあった海軍病院などに搬送する手伝いもした。夜中まで休む間もない救護活動は翌日も続いた。被爆者をどれだけ列車から運び出したか、分からない。とにかく相当な数だった。亡くなった人たちは百日紅(さるすべり)公園(諫早市天満町)の場所にあった市営火葬場で荼毘(だび)に付されたが、そこだけでも400~500人といわれている。
高来の私の家には原爆で家屋を失った遠縁の一家8人が長崎市稲佐町から引っ越してきて、小屋を改造して暮らした。原爆投下から10日目ぐらいに、被災した家の後片付けの手伝いに私もついていった。稲佐に向かう途中の浦上周辺の惨状は予想を上回る悲惨さだった。鉄骨はねじ曲がり、残骸だけが一面の焼け野原にあった。そのすさまじさに言葉を失った。
戦後は「被爆者は放射線の身体的・遺伝的影響があるから嫁のもらい手がない、嫁に来てもらえない」といううわさが流れた。そうした時代だったから私は救護被爆したことを公言せず、結婚した妻にさえ話していなかった。
ところが、1973年に7歳だった三男が体調を崩して入院。主治医から「お父さんかお母さんが原爆に遭っていないですか」と尋ねられ、被爆した人を救護して放射線を浴びたと明かすと「息子さんは白血病です。お父さんの被爆が原因かもしれない」と告げられた。
それから3カ月後、息子は息を引き取った。主治医の余命宣告の通りだった。こうしたことがあったので私も被爆者健康手帳を取得し、原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさを伝えなければならないと考えるようになった。これまで中学校などで講演した。息子が亡くならなければ、こうして当時の話をすることはなかったかもしれない。息子から背中を押された思いがする。
◎私の願い
核の恐ろしさ、戦争の愚かさ、命の尊さを若い人たちには伝えたい。戦争でいいことなど一つもなかった。二度と戦争をしてはいけない、二度と原爆を使ってはいけない。核のない平和な世界が一刻も早く実現することを願う。