氏原和雄さん(94)
被爆当時15歳、諫早で救護被爆

私の被爆ノート

車内の光景に絶句

2024年09月26日 掲載
氏原和雄さん(94) 被爆当時15歳、諫早で救護被爆

 軍隊に男手が取られ、労働力不足を補うため、旧制諫早中3年だった私は諫早駅に学徒動員されていた。当時、20両から30両ぐらいに連なった貨物列車が主に戦争に必要な武器や弾薬、兵隊の食料などを運んでいた。
 夜勤の時に米軍機グラマンの機銃掃射に遭ったこともある。B29爆撃機も頻繁に飛来し、編隊を組んで空をゆうゆうと飛んでいった。これだけ米軍機が来るようになって、私は「日本はもうおしまいだな」と心の中では思っていたが、そんなこと絶対に口にしてはいけなかった。
 あの日は、非常に蒸し暑く晴れていた。私たちが屋外で車両を入れ替える作業をしていると、ピカーッと目がくらむような閃光(せんこう)が走り、ものすごい爆音が響いた。今まで経験したことがない事態に何が起きたのかさっぱり分からず、異様な雰囲気に包まれた。
 間もなく長崎の方角に黒煙がわきがり、太陽を覆うようにして空が薄暗くなった。仲間たちは「大変だ。広島に落とされた新型爆弾が長崎にも落ちたのではないか」と大騒ぎになった。
 しばらくすると、いろいろな情報が入ってきた。浦や長崎方面は全滅状態になっていること、列車は道ノ尾から先は運行できないことを伝えられた。そして「負傷者が多く出ているが向こうでは収容できない。ダイヤを変更し、救援列車に切り替えて諫早に搬送するから態勢を取るように」と指示を受けた。
 私たち駅関係者は列車からホームに負傷者を降ろす作業を手伝うように言われた。ほかにも警防団や婦人会、青年団などからいっぱい来た人たちが、ホームから病院や臨時救護所の学校などに運ぶことになった。それぞれ、リヤカーや担架、戸板などを準備して待機した。
 何時ごろだったか、被爆者を乗せた最初の貨物列車が到着した。私は「早く降ろしてやらなければ」と思い車両の中に入ったが、一瞬にして驚きと恐怖に変わった。
 全身に大やけどを負い、女性のおっぱいのように水ぶくれになった人、皮膚がはがれ落ちている人。夏場の薄着だったので、ほとんどの人が服は爆風と熱で裂かれ、裸同然だった。男女の区別や、若い人なのか高齢者なのかも分からないくらい重傷の人もいた。その光景は目を覆うほどだった。

ページ上部へ