吉田豊さん(83)
被爆当時3歳 爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目で被爆

私の被爆ノート

川に並ぶ黒い何か

2024年9月12日 掲載
吉田豊さん(83) 被爆当時3歳 爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目で被爆

 幼かったため、被爆当時の記憶はこま切れだ。私の被爆体験は、一緒に被爆した母の話が混ざる部分もある。
 1945年8月9日。当時は両親、妹と4人で、長崎市稲佐町3丁目(当時)の小さな木造の平屋に住んでいた。被爆当時、石工の父は消防団の仕事で外出していた。
 自宅の隣はモルタルの大きな家。母の記憶によると、母は私を連れ、木陰で妹をあやしていた。隣家のおじいさんが、植木の手入れをする様子を眺めていたという。
 原爆がさく裂し、ピカッと光った瞬間は鮮明だ。視界全てが真っ白で何も見えない。すぐに母は私と妹を両脇に抱え隣家に逃げ込んだ。そして大きな衝撃に襲われた。
 3人とも命は助かった。夜になり、防空壕(ごう)で泣いていたことを覚えている。母が私の身体を調べると、背中一面に小さなガラス片がびっしり。右の尻には10センチ角の大きなガラスが刺さり、取ることはできたが手当はできなかった。
 父も防空壕に着き、9日はそこで寝た。翌朝、どこかの病院へ行ったが、窓ガラスは割れて屋根も穴だらけ。手当で包帯を巻いてもらった。今も右の尻にはくぼみが残る。
 家族4人で病院から自宅へ向かった。完全にぺしゃんこにつぶれた自宅の姿を忘れない。どうしようもなく、母の実家がある島原へ向かうことにした。翌朝から稲佐町、浦上川の西側、大橋と経由して道ノ尾駅まで歩いた。
 道中、記憶が確かな光景がいくつかある。水の少なくなった川に黒い何かがいっぱい横に並ぶ様子。被爆した人たちが水を飲むために川に入って、そのまま亡くなった姿ということを後から知った。
 大橋町のガスタンクがぐにゃぐにゃに曲がり、無残な様子になった、黒い鉄骨の姿。ぎゅうぎゅう詰めの汽車に乗り、一升瓶を胸に抱き締めていたこと。おそらくもみ殻を取るために瓶の中にお米を入れていたのではなかろうか。
 20歳の時、右目が白内障の診断を受けた。ショックだったが、被爆を自覚した。多くの人の被爆証言を聞くと自らの記憶がよみがえった。
 1957年に三菱重工業長崎造船所に就職。労働組合活動にも力を入れた。原子力船「むつ」の佐世保入港に抗議するため始まった「反核9の日座り込み」にも、1979年3月の第1回から参加。座り込みは今年6月に500回を迎えたが、もう生活の一部になっている。

◎私の願い

 「武力で平和は作れない」という言葉を、いま一度かみしめたい。「恒久平和」とは全ての兵器を放棄し、戦争の準備を一切しないこと。今後も「反核9の日座り込み」などを通して、被爆者の願いを訴えたい。

ページ上部へ