滿田義明さん(90)
被爆当時11歳 飽浦国民学校6年生、爆心地から3.4キロの飽の浦町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

生命力の強さ実感

2024年08月30日 掲載
滿田義明さん(90) 被爆当時11歳 飽浦国民学校6年生、爆心地から3.4キロの飽の浦町3丁目(当時)で被爆

 8月11日。兄の無事を確認できたため、母と2人、東彼川棚町から列車で長崎に帰ろうと駅で待っていたが、なかなかこない。ようやく佐世保方面から来た列車に乗り、長崎に到着したころは、すっかり夜になっていた。
 自宅近くまで戻ると、周辺は真っ暗で1軒だけ明かりがともっていた。住人に聞くと、「福田の浜に米軍が上陸するから遠くに逃げろ」とのデマが流れ、みんな避難し、私の家族は佐賀の親戚宅に向かったという。自宅の中を見ると、泥棒が入ったかのように荒れていた。それほど急いで逃げたのだろう。
 連絡手段はなく、途方に暮れていたところ、父が姉と妹を佐賀に送った後、心配して自宅まで戻ってきてくれた。「なんしよったか」と怒られたが、翌朝、3人で佐賀の親戚宅に向かった。
 終戦は佐賀の親戚宅で迎えた。いとこと一緒に外で遊んでいると、大人たちから「大事な放送があるから」とラジオの前に集まるように言われた。遊びに夢中になり、行った時にはすでに放送は終了。大人たちは「日本は負けた」と言った。「うそだ」。子どもたちは本気には受け止められなかった。
 数日後に帰宅。同じように近所の人たちも戻ってきた。大やけどを負った近所のおじさんは、共同防空壕(ごう)の中で横たわったまま。腐った物にうじが湧くことは知っていたが、人間にうじが湧いている姿を初めて目にした。おじさんの家族がはしでつまんで取る様子は衝撃的で怖かった。私の中で一番ひどい原爆被害の記憶は、このおじさんだ。
 おじさんの体調が少しでも良くなるようにと、私の母は畑で取れたわずかな野菜を持っていき、食べさせようとしていた。家族の懸命な世話のかいもあって、奇跡的に回復。顔にケロイドは残ったが、その後は働きにも出て、生命力の強さを感じた。
 終戦後は食糧不足に苦しんだ。配給はトウモロコシの搾りかす。何もない時は「ぺんぺん草」をゆでて、苦みを我慢して食べた。「ゆりの根」がおいしいと聞けば、遠くまで探し回る日々。我慢と助け合いで生きながらえた。
 結婚し、3人の子に恵まれた。子どもに被爆の影響が出ないかと不安だったが、今のところ誰にも現れていない。孫は7人。苦難の時代を乗り越え、90歳まで生きてきた。「人間ってすごい」とあらためて思う。

◎私の願い

 みんなが仲良く生活できる平和な世界を望む。核兵器はなくさなければいけない。核兵器が使われた後の被害を想像することができないから(核保有国から)核使用という脅し文句が出ている。私たちの苦しい経験に思いをはせてほしい。

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