滿田義明さん(90)
被爆当時11歳 飽浦国民学校6年生、爆心地から3.4キロの飽の浦町3丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

「全員避難せよ」と伝達

2024年08月29日 掲載
滿田義明さん(90) 被爆当時11歳 飽浦国民学校6年生、爆心地から3.4キロの飽の浦町3丁目(当時)で被爆

 1945年8月9日。朝から空襲警報が出ていたため、母と次姉、妹と一緒に家から100メートルくらい離れた共同防空壕(ごう)に避難していた。壕の中には地域住民が20人ほど。午前11時を前に警報が解除され、「今のうちにご飯を食べておこう」とそれぞれの家族が家に帰っていった。
 母は台所で準備を開始。私は玄関に腰を下ろし、次姉と妹は近くの家に寄っていた。外から聞こえてきたのは飛行機の音。「日本軍かな」。玄関から足を踏み出して外をのぞこうとした瞬間、閃光(せんこう)が走った。反射的に後ろを向く。近くにあった頭巾をかぶり、訓練通りに目と耳を手で押さえ、げた箱のそばに伏せる。爆風を受けたが無傷だった。
 台所から母が駆け付け、一緒に自宅裏の家庭用防空壕に入った。しばらくして、婦人会のおばさんが「全員避難せよ」と伝達で回ってきて、再び共同防空壕に戻ることに。壕に向かう途中、稲佐山方面の空を見ると、真っ黒い煙が立ち込めていた。しばらくすると、次姉と妹も無事に避難してきて、ひと安心。壕の中で大人たちは「広島に落とされた新型爆弾と同じものではないか」と話していた。
 爆風で畳がめくれるなどしたが、家に大きな被害はなかった。父は当時、川南工業香焼島造船所に勤務。直接的な被害には遭わず、会社の命令で市中心部の方で負傷者の救助に当たったという。夕方、家に帰ってきて惨状を話していたが、私はただ「怖い」という感情しかなかった。
 その夜、母が「(東彼川棚町にいる兄が)『帰る家がない』と夢枕に立った」と言い出した。不安が消えず、翌朝、まだ暗いうちに母と2人で道ノ尾駅を目指して出発。浦上辺りを過ぎる頃、少しずつ明るくなってきた。周囲の建物は消失し、火の玉のように見えた正体は先が燃えたまま電線に引っかかっていた電柱だった。近くを3匹の馬が通ったが、しっぽはない。11歳の少年は真っすぐ前だけを見つめて歩いていたのだろう。街の惨状の記憶はほとんどない。
 列車で川棚に到着。軍属の兄は兵舎で元気に働いていた。兄の上司は「きょうは泊まって明日(兄も)一緒に帰りなさい」と言ってくれた。翌日、兄は結局、残ることになったが、今思うと、上司は「もう日本は負ける」と分かっていたのだろうか。

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