荒木貞慶さん(94)
被爆当時15歳 海星中3年、爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町4丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

生き地獄だから行くな

2024年07月25日 掲載
荒木貞慶さん(94) 被爆当時15歳 海星中3年、爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町4丁目(当時)で被爆

 8人きょうだいの長男として長崎市で生まれた。父は三菱重工業長崎造船所で働いていた。戦争がひどくなると母と弟6人は島原に疎開し、その後は長崎の自宅で父と姉と3人で暮らしていた。学徒動員で西彼香焼村(現在は同市)の川南造船所の機械工場に配属され、ほぼ毎日、船に乗って工場に向かった。鉄を削る大きな機械に油を差したり、部品をクレーンで運んだりしていた。
 1945年8月9日、夜勤を終えて朝6時ごろ家に帰った。ご飯を食べ終わった後は裸で寝ていた。突然、窓から差し込んだ閃光(せんこう)のまぶしさで飛び起きた。数秒後、ごう音と同時にとてつもない爆風が押し寄せた。障子は破け、ガラスは割れ、近所の瓦も飛んできて家の中はグチャグチャになった。
 すぐ近くに爆弾が落とされたと思い、姉と外に飛び出した。空を見上げると巨大な白い雲が空に立ち上っていた。けがはなく、家族も全員無事だった。その日はご飯もろくに食べずにろうそくの光で夜を過ごした。
 父は翌日から救護班として15人くらいの部下を連れて爆心地方面に向かった。家に帰ってくると父は言った。「あそこは生き地獄だから行くな」。惨状を直接は見ていないが、近所の空き地や神社などでは死体を焼いていたのを覚えている。何となく想像できた。とんでもない爆弾が落とされたと。
 父の言われたとおり、外に出るのは近所だけで、姉と一緒にほとんど家にこもった。原爆投下後は島原にいる家族とはまったく連絡が取れていなかったので、8月末に父が「島原に行こう」と言い、3人で行くことになった。
 向かう途中で町を見渡すと、あちこちで家のがれきを積み重ねて死体を燃やしていた。壊れた家に押しつぶされた馬が腐っていたのも覚えている。諫早まで歩き、そこから汽車に乗った。
 再会すると母たちは泣いて喜んでくれた。島原では「長崎は全滅だ」とうわさされていたらしい。父は2日で帰り、私と姉は10日間くらい滞在して長崎に戻った。
 それからは中学校の片付けに借り出された。大けがをしした友人もいると聞いたが、あんまり覚えていない。自分のことで精いっぱいだった。けがもなく元気な知り合いも多かったが、数カ月たつと、何人もの人が急に死んでいった。

◎私の願い

 あれだけ核で被害を受けたのに日本は核の傘で守られている。核兵器は存在したらダメだ。最近は科学が進歩し過ぎていて、戦争もひどい。ニュースを見ていても人の命が軽視されていると感じる。人間は互いに助け合って生きていくべきだ。

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