高井良明さん(91)
爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

私の被爆ノート

爆風で吹き飛ばされる

2024年07月11日 掲載
高井良明さん(91) 爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

 有川町(現新上五島町)で生まれ、1945年4月、旧制県立瓊浦中学(現長崎市竹の久保町の県立長崎西高)に進学、同市片淵町(当時)の伯父の家に下宿した。
 あの日は英語の試験の後、下宿が近い友人と下校。浦上駅のところで、北部の住吉に住む同郷の友人を訪ねようかと悩んだが、いつも通り南に向かって帰路についた。そこから数百メートル先、井樋ノ口電停(現銭座町)辺りを歩いているときに原爆が落ちたようだ。敵機襲来の早鐘が鳴り響いたのは覚えているが、そこで記憶がぷっつりと途切れている。数十メートル吹き飛ばされて意識を失っていたようだ。
 意識が戻ったとき、辺りは真っ暗。祖母の顔が暗闇に浮かび「ああ、死んだのかな」と思い、再び気を失った。数時間後、「おおい、おおい」と誰かの呼ぶ声が聞こえ、目を覚ました。もうもうとした油煙に取り巻かれ、近くに止まった電車の窓からは人が垂れ下がり、馬も死んでいた。その場に生きているのは私1人くらいのもの。
 肩を揺すり、声をかけてくれた人の姿をはっきり認めたが、私はぼうぜんとしたまま。全身火傷でガラスの破片のようなものが刺さった私を抱き起こし、自転車の荷台に乗せて防空壕(ごう)まで連れて行ってくれた。火の手が迫り、山手の方に逃げた。どこをどう歩いたか分からないが、諏訪神社に下り、下宿先にたどり着いた。はぐれた友人も自力で帰り、「高井良君は死んだ」と伯父夫婦に告げていたため、ふらつきながら帰って来た私を、みんな「よう帰って来たね」と泣いて出迎えてくれた。
 瓊浦中の被害は大きく、教職員、掃除当番、防空壕に入った生徒らは全員、犠牲になった。掃除当番かどうか、北部の友人を訪ねたかどうか、わずかな違いが運命を分けた。有川の実家で療養中、「お前は生かされたのだから、人の役に立つ人間になりなさい」との母の言葉が、今も道しるべになっている。
 長崎に戻り、県立長崎東高に入学。水泳部で練習中、監督が雑談の中で「俺はさ、原爆のときに小さな子どもを助けて、自転車の後ろに乗せて運んだよ。もう死んでいるだろうけど」と語っていた。自分のことだった。だが恐怖がよみがえって硬直し、自分だと明かせなかった。数年後、心を奮い立たせてお礼を言おうと訪ねるも消息不明。悔いが残っている。

◎私の願い

 戦争で苦しんだ。そこから多くを学び、過去を恨む気持ちはない。むしろ過去に感謝し、祈りをささげる思いで精いっぱい生きている。あんな経験はもう誰にもさせたくない。核廃絶で、世界が平和に向かうことを願う。

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