当時の北高古賀村(現長崎市)で両親と姉と4人で暮らしていた。15歳だった私は国民学校高等科を卒業し、家の農業の手伝いをしていた。兄もいたが海軍に志願し、鹿児島県鹿屋市で終戦を迎えた。
あの日は父が用事で長崎市内に出かけ、母と姉と3人で朝から自宅近くの田んぼで草取りをしていた。疲れたので帰ろうと腰を上げたところ、米軍機が銀色の機体を輝かせ、長崎の方向に飛んでいくのが見えた。山の陰に隠れて見えなくなり「きょうはえらい高く飛びよるね」と話していると突然ピカッと光り、顔に熱を感じ、台風のような爆風に襲われた。
急いで帰る途中、長崎の方角から紙の燃えかすや灰が飛んできた。自宅の障子は爆風で飛ばされ、土壁の一部が崩れていた。父は原爆が落ちた時、隣の西彼矢上村(当時)まで戻っていて無事だった。
その日の午後、「長崎に応援に向かう」と村の学校に警防団員が集められた。私が最年少だった。長崎に向かう途中、頭から血を流した人やぐったりとした子どもを背中に抱えた人が市内から歩いてきた。夕方に日見トンネルに着いたが、長崎駅方面が真っ赤に燃えているのが見え、その日は村に帰ることになった。
翌朝トラックで長崎に向かうと長崎駅から浦上方面は焼け野が原で爆心地に近い坂本町(同)はまだ火がくすぶっていた。「この爆弾はひどか」と思ったが、広島に原爆が落とされたことも知らず何が起きたか分からなかった。
長崎医科大付属病院(同)近くで3時間ほど遺体を収容する作業に当たった。「ここに1人、あそこに2人」。5、6人で手分けして民家から遺体を道路まで運び出し、リヤカーに乗せた。「仕事だから」と心を無にして、汚いとか恐ろしいという感情はなかった。
帰って父に話をすると「お前はもう行くな」と言われ、翌日は父が代わってくれた。父はリヤカーで運ばれてきた遺体を浦上川近くで焼く作業に当たったらしく、家に帰ると「お前が行かんで良かった」と話していた。
「結婚に差し支えるといけない」と思い、ずっと人に体験を話さなかった。それが職場の同僚につい話してしまい、被爆者健康手帳の取得を勧められた。警防団の団長だった人たちに証言してもらい、手帳を取得した。原爆投下から31年後の1976年のことだった。
◎私の願い
60歳を過ぎてから地元の小中学生や観光客に体験を話すようになった。戦争はしたらいけないと伝えたい。原爆の健康影響は生涯続く。こんな兵器を造ってはいけない。私たちは戦争で苦労した。今の平和な生活がいつまでも続くのが一番。