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村川敦子さん(86)
被爆当時8歳 西坂国民学校1年、爆心地から2.5キロの西上町(当時)で被爆

私の被爆ノート

こびりつく火葬の光景

2024年06月13日 掲載
村川敦子さん(86) 被爆当時8歳 西坂国民学校1年、爆心地から2.5キロの西上町(当時)で被爆

 あの日はいつも通り朝から学校に行ったが、警戒警報が出て西上町(現・筑後町)の家に帰った。「母ちゃんいますか」と呼ぶと、洗濯していた母は「まだ早かとに」と言いながらも手を止め、早めの昼食を準備してくれた。母と、一番年が近い三男の兄と3人で食べた後だった。
 突然ピカッと辺りが明るくなった。母が「伏せんね!」と叫び、とっさに目と耳を指で押さえた。部屋の障子がバタバタと倒れた。聞こえていた飛行機の音がやみ、はだしで家から飛び出すと地面が熱かった。水がチョロチョロと流れている溝で足を冷やした。
 近所の人の親戚が住む諏訪神社の近くに避難することに。敵機に見つからないようにと、芋畑の葉に隠れながら少しずつ坂道を上った。午後4時ごろ自宅に戻ると、家は燃えて跡形もなかった。逃げるときに持ち出せるよう、大切なものはトランクにまとめていたが、それどころでなく持ち出せなかった。何もかも失い、母は泣いていた。
 夕方、川南工業深堀造船所の掃除に行っていた2番目の姉が命からがら帰ってきた。防空壕(ごう)に入るのが遅れたのだろう。髪の毛が抜け、「水ば、水ば」と言って3、4日後に亡くなった。
 身を寄せる親戚はなく、しばらくは着の身着のままで防空壕(ごう)で生活した。近所の寺の階段の下にぞろぞろと遺体が担架で運ばれ、焼かれていた。「ポーン」とはじけるような音が聞こえた。「人間のへそが燃える音」だと教えてもらった。子どもながらに見た悲惨な光景は、頭にこびりついて忘れられない。
 ある日、三菱重工業長崎造船所に勤務していた父が、仕事場からトタンを1枚抱えて帰ってきた。家の近くの崖に斜めに立てかけ、それからその下で暮らした。ヘビが出て泣いたのを覚えている。学校は寺で再開。木のみかん箱を机代わりにした。燃えた校舎の復旧のため、砂利運びにも汗を流した。
 食べるものがなく、野菜を買うために母と満員の汽車に揺られて諫早によく行った。タマネギをリュックサックに詰めて帰った。交換してもらうための地下足袋などは、母がどこからか用意していた。
 陸軍に行っていた長兄はシベリアで亡くなった。海軍にいた次兄は、ある日ひょっこり戻ってきた。持って帰ってきてくれた缶詰を喜んで食べた。

◎私の願い

 あまり被爆体験を話してこなかったが、被爆者も少なくなり、少しでも役に立てばと思い話し始めた。ロシアのウクライナ侵略などもあるが、戦争は絶対反対。世界平和を願っている。みんなが明るく安心して過ごせるようになってほしい。

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