綿谷頼子さん(82)
被爆当時4歳 爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆

私の被爆ノート

恐怖で身じろぎできず

2024年5月23日 掲載
綿谷頼子さん(82) 被爆当時4歳 爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆

 私は東京で生まれたが、戦争の激化で、3歳のころ、父の生家がある鹿児島県の屋久島に母や下のきょうだいと身を寄せた。父と兄2人はしばらく東京に残っていたが、1945年3月の大空襲を受け、やはり疎開することになった。父が長崎市に仕事を見つけ、十人町の借家に一家で移り住んだ。久しぶりに家族そろって暮らせると喜び合っていた。長崎に原爆が落ちるとは夢にも思わなかった。
 幼かったので、あの日の記憶は少ない。私は自宅の居間に座って遊んでいた。覚えているのは、ふすまとガラス戸の向こうに見える隣家の外壁が突然ピカッと光ったこと。その後、爆風でふすまが吹き飛び、ガラス戸が壊れたことだ。2階にいた兄が急いで降りてきて私を抱え、自宅土間に掘った防空壕(ごう)に入った。私は身じろぎもせずにぼうぜんとしていたという。幼いながらに恐怖を感じたのだろう。
 当時家には母ときょうだい計7人がいた。最近になって母(当時36歳)と2番目の兄(当時16歳)の手記が見つかり、詳しい状況を知ることができた。それによると、母は幼い弟を背負ったまま、昼食の準備をしていたが、爆風を受けて壕に逃げ込んだ。しばらくたってから出ると家の中がめちゃくちゃになり、屋根は飛ばされていた。大波止で働いていた父は翌日戻ってきて家族全員が無事だった。
 2番目の兄はガラスで手をけがしたため、近くの病院に走った。そこで真っ黒に焼けて炭のようになった遺体を目にした。翌日以降、1カ月ほど毎日のように遺体を火葬場まで運ぶ手伝いをしたと書かれていた。
 他に記憶に残っているのは、終戦から間もないころ、進駐軍の米兵が、いきなり自宅を訪ねてきたこと。土足で家に上がり込み、押し入れや戸棚をバタバタと開けて何かを探し回っていた。怖かったので母にしがみつき、離れなかった。
 終戦後はしばらく貧しい生活が続いた。それでも小学校に上がる前、父は私にランドセルを買ってくれた。浜町の岡政百貨店までの道中、周りに建物は何もなかったと記憶している。今振り返ると、まだ町のあちこちに原爆の傷跡が残っていたのだと思う。
 その後、長崎での生活が厳しくなり、家族で屋久島に戻った。転校先の学校の運動場には爆弾が落ちた大きな穴が空いていた。

◎私の願い

 近年、子どもたちへの体験講話を始めた。世界中で戦火が絶えないが、戦争の恐ろしさを知り、一人一人が平和のために何ができるかを考えてほしい。例えば普段のあいさつも、相手を知り、話すことにつながる大切な平和活動だと伝えたい。

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