竹原敦子さん(82)
被爆当時4歳 入市被爆

私の被爆ノート

ビー玉が遺骨代わり

2024年5月9日 掲載
竹原敦子さん(82) 被爆当時4歳 入市被爆

 1945年3月、両親と姉と旧西彼長浦村(現・長崎市長浦町)に疎開した。4歳だった。時津からの船が定員を超えたため、当時14歳と12歳の兄2人は浜口町(同岩川町)の祖母宅に残った。
 8月9日、ドーンという音がして外に出ると、もこもこした大きな雲が出ていた。父はその日の夜、長崎へ向かった。父が長浦に戻り、11日、母と3人で、兄たちと祖母を探しに行くことになった。
 家は全焼。むき出しになったれんがやガラスがきれいに見え、触ると熱くて右手をやけどした。「きよちゃんのボタン」とつぶやく声が聞こえた。陶器のボタンが見つかり、長兄だと分かった。出勤前だったのか、ラジオの前にいたようだ。祖母の骨は座ったままの状態で見つかった。一番仲が良かった次兄の行方は分からなかった。
 両親が辺りを懸命に掘る間、旧長崎西洋館の辺りで馬の死体を見つけた。腹はぐちゃぐちゃで、うじ虫が湧いていた。顔を見ると、つぶらな瞳が見えた。ハエが飛び回り、痛々しくて涙が出た。
 その夜は近くの防空壕(ごう)で寝た。強烈なにおいで入り口から動けなかった。翌朝、次兄を探して市立商業学校(現・長崎商業高)へ向かった。
 道中、後ろからおばさんが這(は)って水筒を取ろうとした。とっさに父が肩車して遠ざけたが、「水をください」と言う姿がかわいそうだった。母の表情はずっと能面のようだった。次兄は見つからず、城山町1丁目(当時)の自宅跡にあったビー玉を遺骨代わりに持ち帰ることにした。
 長浦に帰ると高熱を出し、吐き気や下痢が続いた。その後も体調不良が続き、運動会では走れなかった。内臓が特に弱く、中学生になっても下血することがあった。
 46年8月9日、祖母宅の跡に土を盛り、墓に見立てて線香と花を置いた。「お兄ちゃんはこの中にいるの」と尋ねると、父は黙ってかぶりを振った。
 47年、長崎商業の先生が長浦の自宅を訪れ、次兄の最期を教えてくれたそうだ。防空壕掘りに動員され、休憩中にグラウンドで原爆に遭ったという。大やけどを負い、家族の名前を呼びながら、夜明け前に息を引き取ったらしい。
 51年、父が「城山小に少年平和像が建立された」という新聞記事を見て「貞夫(次兄)とそっくり」と言った。父も悔やんでいたのだろう。

◎私の願い

 母親は誰も、自分の子を人殺しのために産んでいない。かわいがった子がそんな状況にあってほしくないと思っている。何もなくても病気などで亡くなることもある。原爆だけでなく、敵味方を作らず、命を穏やかに大切に生きてほしい。

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