田中勝巳さん(98)
被爆当時19歳、大村で救護被爆

私の被爆ノート

光を怖がる負傷者

2024年4月25日 掲載
田中勝巳さん(98) 被爆当時19歳、大村で救護被爆

 当時私は青年学校を卒業して、実家で農業をしながら警防団で活動していた。あの日は良い天気で、私は現在の大村市立玖島中の敷地にあった畑でカボチャを収穫していた。作業中に爆音がしていて「またB29の飛んできたばい」と思っていた。作業を終えて家に帰ってから、様子を見に海岸に出て行った。
 近くの人も集まっていて、音がする長崎方面を見ていたら「ピカッ」と光が目に差し込んだ。一瞬「目ばやられた」と思った。周囲の人と「何だったのだろう」と話していた数秒のうちに、「タァーン」という音と衝撃に襲われ、私たちは体を伏せた。
 長崎の方角を見てみると、雲が立ち上っていた。最初はB29がガスタンクに墜落して大爆発したのかと思った。しかし時間がたつにつれ、昼間なのに夕焼けのようになっていったので「おかしい」と感じた。そこで私は、広島で甚大な被害が発生したという新型爆弾ではないかと思った。年上の消防部長が「様子を見に行く」と自転車で向かったが、長崎市内には入れず途中で引き返したそうだ。
 その日の夕方6時過ぎ「全員出動」の命令が出て、私は大村駅に向かった。駅前にはトラックが2台止まっていて、荷台にはおにぎりを手に座って泣いている女性など、多くの負傷者が乗せられていた。駅のホームは背中の皮がべらっとむけた人など、列車で運ばれてきた被爆者であふれており、うめき声や「助けてくれ」と泣き叫ぶ声があちらこちらから聞こえた。
 私は負傷者を病院に搬送するため、抱きかかえてトラックに運ぶ作業を担当。中にはすでに息絶えている人もおり、「何もできなくてすまんやったね」と祈ることしかできなかった。水を求める人もいたが、軍医から禁じられていたので飲ませられなかった。今考えれば、いずれ死ぬなら飲ませてあげれば良かったと思う。
 作業は夜が明けるまで続いた。負傷者は光を怖がっており、星の光ですら「(光が)落ちてきてる。何とかしてくれ」とおびえていた。最後に残された人がいないか周辺を点検していたところ、カズラが巻き付いた木の下に、同年代くらいの男性があぐらをかいてじっと座っていた。彼の背中にはびっしりとガラスが刺さっていた。そのまま抱き上げることもできなかったので、私は仲間と戸板に乗せて運んだ。

◎私の願い

 戦後、私は警察官になり少年関係の問題などに携わった。人を真っ先に助けられる警察官になれて良かったと思う。戦争で私も慕っていた親戚を亡くし、悲しい思いをした。秩序を守り、戦争だけはしない平和な世界になってほしい。

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