父が工場を営んでいたシンガポールで生まれ、両親と9人きょうだいで暮らしていた。国の指示で1945年春ごろ、母と11歳の姉、兄2人、弟と先に引き揚げ、立山町の祖母宅で暮らしていた。
あの日、祖母と弟と過ごしていると「ピカ、ドーン」と光と音がした。家がぐらつき、障子や屋根は飛んだ。母が買い物から帰宅し、軒下に足を踏み入れた瞬間だった。その後、すごい勢いで雨が降り、びしょぬれになった。祖母がなぜか「雨に当たるな」と言い、土間に呼ばれた。泥壁が頭に落ち、大泣きした記憶がある。
落ち着いてから近くの防空壕(ごう)に行くと、人でいっぱいだった。「また爆弾が落とされるかも」という恐怖で、みんな入りたがった。子連れの女性に水を求められたが、母はかたくなにあげなかった。まだ幼かったので、意味が分からなかった。
家に帰り、近くの木陰で休憩していた兄2人と姉と合流できた。夜になると「(被害が)ひどいらしいから」と姉に手を引かれ町中を歩いた。あの時かいだ、遺体が燃えるにおいは忘れられない。高台に上って見下ろすと、浦上一帯は火の海だった。
当時は食べものがなく、物々交換で手に入れていた。翌日も、姉に連れられ大波止に行った。魚の水揚げ作業をしていた漁師が運ぶ際に落としたいわしを集め、いっぱいになると姉に合図して長崎駅前に行き、野菜や米と交換した。他にも山に生えているノビルや野草も摘んで食べた。
食べ盛りの子どもが5人もいたので、原爆に遭った後も、母は祖母の着物や帯をリュックに入れて時津方面に売りに行き、野菜などと換えていた。朝から晩まで出て、帰ってきてからご飯を作るので、私は夜には栄養失調でぐったりして待っていた。
1947年ごろ、父と姉3人、兄が帰国。家族全員が無事に一緒に集まれたことは、ただただ運が良かった。岩川町の復興住宅に引っ越し、銭座小に通ったが教科書もなく、お遊戯ばかり。今で言う被爆遺構が遊び場で、がれきから探した金属をお金に換え、あめを買った。浦上で原爆と復興とともに生きてきた。
母は年を重ねるごとに、髪が薄くなり、70代でがんで亡くなった。被爆の瞬間を考えると、火傷していたかもしれない。あれが被爆の影響かと思うとぞっとする。
◎私の願い
戦争は二度としてはいけない。着るものも食べ物も全てがなくなる。人を苦しめることをしてはいけない。ウクライナ戦争の映像を見ると「やめなさい、意味がない」と言いたくなる。当時を思い出して、子どもの状況を重ねて見てしまう。