長与国民学校(現在の西彼長与町立長与小)6年だった。父はフィリピンで戦死し、祖父、母、弟2人と長与村吉無田郷に暮らしていた。
8月9日は、自宅そばの祖父の弟宅に疎開してきていた親戚の8歳の男の子と2人で、朝から近くの山にまき取りに出かけていた。午前11時ごろ、休憩しようと落ちていた石ナシの実を拾い、かじっていたとき、上空で飛行機の音が聞こえた。見上げた瞬間、木々の間から光が差し込んできた。金銀の短冊がキラキラと降り注いできたようで、きれいだった。
音や熱さは覚えていないが鼻先にやけどをし、皮がむけてひりひりした。「ただごとではない」。一緒にいた男の子の手を引っ張り、山の入り口の防空壕(ごう)まで懸命に走った。近所の人たちも来ていて、押されるように中に入った。しばらくして家族が気になり、急いで自宅に帰った。
自宅は爆風で傾き、中はすすだらけだった。半身不随だった祖父は転倒し、その後は寝たきりに。他の家族は無事だった。
しばらくして、長崎市から逃げてくる人たちの姿が見えた。川平を越えて、ぞろぞろとアリの行列のように歩いてきた。みんなぼろぼろの衣服に、はだしで血だらけ。今思い出しても胸がずんと痛む。
昼ごろ、祖父の弟と一緒に、道中で出会ったという師範学校の先生と生徒2人がわが家にたどり着いた。母が家にあった食べ物を与えて、父の服に着替えさせ、弁当を持たせて、家族が住むという長崎市の城山に足早に帰っていった。その後連絡はなく、亡くなったのだと思う。
家の中や納屋にむしろを敷き、自宅は逃げてきた人や親族たちの休憩場所となった。母が水やイモなど、あるものを分け与えた。日がどっぷりと暮れたころ、両手に子ども、背中に赤ちゃんを連れた女性が来て、一晩泊まっていった。足は血だらけで、わら草履を分け与えた。諫早まで線路伝いに帰ると言っていた。
機関助士をしていたいとこは浦上で被爆し、体中に紫色の斑点が出て寝たきりになり、8月21日に18歳で亡くなった。機関士だった叔父は救援列車で人々を送ったと聞いたが、肝臓を悪くし、7年後に子ども5人を残して35歳で亡くなった。戦後は母が祖父の世話で手いっぱいで、弟とミカン売りに出かけるなど苦しい生活が続いた。
◎私の願い
私たちが戦争で心に受けた傷は、戦後78年たっても癒えることはない。外国で今も行われている戦争が一刻も早く鎮まってほしい。核兵器も二度と使われてはいけない。ひ孫の代やその先もずっと、日本の平和を願っている。