岩永剛さん(84)
被爆当時6歳 稲佐国民学校1年、爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目で被爆

私の被爆ノート

焼け跡から青白い炎

2024年1月18日 掲載
岩永剛さん(84) 被爆当時6歳 稲佐国民学校1年、爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目で被爆

 あの日は夏休みで、自宅で兄と寝転んでいた。飛行機の音が聞こえた。突然、外がピカッと光ると、ものすごい風が吹きつけ、障子を隔てた隣の部屋まで体が飛ばされた。気が付くと机の上に座り込む格好になっていた。兄も私も目立ったけがはなく、稲佐山方面の小高い所にあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。晴れていたのに、ほこりや煙で辺りが薄暗くなっていた。
 当時は長崎市稲佐町の自宅で、両親と姉2人、兄との6人暮らし。父や姉は仕事や買い物に出かけていたが、家族は全員無事だった。防空壕の中には20~30人ほどいただろうか。やけどや傷を負った人らが、戸板を担架代わりにして運ばれてきた。負傷者が口々に「水をくれ」と声を上げるが、兵隊が「水をやっちゃだめだ。死んでしまうぞ」と叫び回っていた。
 そのころ稲佐山の山頂に高射砲の陣地があり、多くの日本兵が配属されていた。当時では珍しく、山頂までコンクリートの道路が敷かれ、トラックが行き来していた。その陣地から兵隊たちが下りてきていたのだった。兵隊が立ち去ると、負傷者のそばにいた人たちは、見るに見かねて水をあげていた。夜になっても防空壕の中は大変な暑さでとても寝ていられない。外に出て市街地を見渡すと、闇の中に火の手が上がっていた。
 翌日、自宅に戻ると、家屋は大破していた。水道の水が垂れ流しになっていたが、お湯になっており、熱くてとても飲めなかった。焼け野原の下を水道管が通っていたためだろう。そのうち「ピカドンが落ちた」と口づてに聞いた。当時「ピカドンにやられると何十年も草木が生えない」とうわさされたが、1週間ほどで焼け跡から草が芽を出しているのを見て、自然の力強さを感じた。
 雨が降ると、きれいな青白い炎がポッ、ポッと夜の焼け跡に浮かぶのを見た。人間か動物か分からないが、骨に含まれるリンが雨水に反応して光っているらしかった。
 原爆投下から2年後、父が胃潰瘍で亡くなった。働き手を失い、一家の生活は苦しくなった。家計を助けるため、働きながら定時制の高校に通った。9歳年上の兄は29歳で突然亡くなった。被爆した人が原因不明のまま突然死する「ぽっくり病」だと言われた。私自身は丈夫な方で、大手の運送会社を定年退職まで勤め上げたが、75歳のころ脳梗塞を患った。

◎私の願い

 戦時中から戦後間もなくまで食べ物もないような状態。戦争をしてはならないが、今もロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとハマスの戦闘で多くの人が殺されている。互いが未来永劫(えいごう)、憎み合うことがないよう、国際紛争の早期解決を望む。

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