原爆投下時、私は3歳だった。あの日の記憶は自分の体験なのか、両親やきょうだいから聞いた話なのか定かではない。それでも、あの強烈な光と爆発音は鮮明に脳裏に刻み込まれている。
当時は両親と兄2人、姉3人、弟、祖母の9人と家野町に暮らしていた。空襲警報を聞き、姉3人に連れられて自宅近くの防空壕(ごう)へ逃げていた。警報が解除され、そばにあった柿の木の下で涼んでいると、ピカッと閃光(せんこう)が走った。次姉と三姉は吹き飛ばされ、里芋畑で気を失っていた。長女に抱かれていた私は木陰にいたからか、熱風を直接受けず無傷だった。
自宅周辺は炎に包まれ、居残っていた祖母は焼死した。弟を背負って昼食の準備をしていた母は崩れた家屋の下敷きになりながら、何とか抜け出した。母の体中にはガラスの破片がいくつも突き刺さり、弟は頭部が裂けて顔中血だらけになって泣いていた。
二つ年上の次兄は、近くの野原でトンボを追いかけていた。全身に熱風を浴びて大やけどを負い、親戚の家へ運ばれた。床に伏して「水を」「水を」とうめいたが、ちまたでは「けが人に水を飲ませると死ぬ」という話が出回り、我慢させられていた。8月15日。次兄は床からはい出て死んでいた。口のそばには、やかんが転がっていた。母は涙を流して「どうせ助からない命なら、腹いっぱい飲ませてやればよかった」と嘆き、ずっと後悔していた。
中学を卒業したばかりの長男は、駒場町(現松山町)にあった勤務先の工場で爆死した。終戦後、家族で遺体や遺品を探したが見つからなかった。熱で変形したビー玉とアルミの弁当箱が落ちていたので持ち帰って形見代わりにした。
残された家族は住む場所がなく、親戚の家を転々とした。被爆のやけどで片腕が使えなくなった父が6畳一間のバラック家を建て、身を寄せ合って暮らした。父は造船関連などの仕事をしていたが生活は苦しく、母も果物の行商をして支えた。
小中学校時代には、被爆の影響なのか、何人かの友人が突然亡くなった。21歳で県職員組合に入局。同組合の被爆者連絡協議会設立に携わり、退職した後も平和運動を続けた。ただ、最近は視力が日に日に落ち、盲目に近い状態になった。思うように活動ができなくなり、悔しくてたまらない。
◎私の願い
ウクライナなど世界で戦争が起きている。日本も基地の強化や米韓軍との共同訓練を進めている。「戦争はやむを得ない」と容認する空気が広がっていないか心配だ。核兵器廃絶は当然。人命を奪う戦争自体を絶対に許してはいけない。