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野中倫子さん(87)
被爆当時9歳 伊良林国民学校3年、伊良林町2丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

異様な浦上川の光景

2023年10月05日 掲載
野中倫子さん(87) 被爆当時9歳 伊良林国民学校3年、伊良林町2丁目(当時)で被爆

 若宮稲荷神社(長崎市伊良林2丁目)の少し上に疎開先の家があった。教員をしていた両親と姉2人の5人家族。父は当時44歳で北大浦国民学校の校長、母は39歳で伊良林国民学校の教師をしていた。
 8月9日は、とても暑い日だった。家のすぐ横の庭に掘っていた防空壕(ごう)に近所の子どもたちと一緒に入っていたら、空襲警報解除の放送があった。「蒸し暑かね」と言って外に出て、縁側に座った瞬間だった。ピカーッと光を浴び、ドカーンと爆発音がした。私にけがはなかったが、次姉尚子の頭にはガラスの破片が刺さった。爆風で家の中のたんすが倒れた。しかし、「どこかに焼夷(しょうい)弾が落ちたのだろう」「雲がきれかよ。見に行こう」などと原子爆弾やそれによるきのこ雲とは知らず、のんきな話をしていた。
 この日、母は体調を崩して家にいた。父は学校から戻ってきたが、長姉知子は帰ってこなかった。知子は学徒動員で茂里町の三菱長崎製鋼所に勤務していた。父は「探しに行く」と言ったが、母は「もう死んどるやろ」と話していた。
 翌日の夕方、二つの人影が家に近づいてきた。髪も服もボロボロで、顔は真っ黒だった。玄関までやってきて何も話さず突っ立っているのを見た私が「姉ちゃんやろ」と言っても、放心状態なのか、ひと言もしゃべらなかった。「長女は死んだ」と思っていた母は、驚きのあまり気絶して倒れてしまった。一緒に来た若い男は誰なのか分からないまま去って行った。
 その後、母は伊良林国民学校の校庭で運ばれてくる死体を他の先生と一緒に焼き続けた。「あんな仕事は二度としたくない」と言っていた。骨はリンゴ箱に入れられ、妙相寺の墓地に埋めていたようだ。
 12日の朝から、佐賀県武雄市にあった父の実家に向かった。役所の人だったか、「75年は草も木も生えない」と言われ、長崎から極力出て行くよう命令された。汽車の中は、座っているのか死んでいるのか分からない人たちであふれていた。浦上川沿いを通る時、重なり合った死体と物であふれた異様な光景を見た。今でも忘れられず、通る時には気分が晴れない。亡くなった人たちに語りかけられるよう、浦上川をお花でいっぱいにしたらいいと私は思う。

◎私の願い

 戦争は知らないほうが幸せだと思う。私よりひどい体験をした人も多くいるので証言をしてこなかった。後世の人たちが、生き方を考えるときや悩んだとき、私たちが経験したことが少しでも答えを出す足しになれば幸いだと思っている。

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