1945年8月1日、長崎市は空襲を受けた。竹の久保町にあった自宅は爆風で飛んできた大きな石で壁などが壊れた。家族にけがなどはなかったが、危険を感じた両親が、私、姉2人、いとこの4人を本原町3丁目(現在の三原)にあった祖父の知人宅に避難させた。両親と2人の兄は自宅に残った。
9日。避難先の庭先でいとこと遊んでいると、右側から強い光を感じた。とっさに近くの家の軒下に逃げた。わらぶきの屋根が燃えて肩に落ちてきたので、必死で防空壕(ごう)まで走った。いとこと2人だけで心細かったが、すぐに姉たちが捜しに来てくれた。緊張が和らいだのだろう。初めて全身の痛みに気付いた。
頭から出血し、半袖と半ズボンから出ていた腕や脚など右半身は大やけどしていた。医師の治療は受けられず、すったジャガイモなどを塗ってもらった。いとこは左半身を大やけどし、数日後に亡くなった。被爆から4、5日後に祖父の知人宅を離れ、親戚が借りていた家に移った。歩けない私をリヤカーに乗せ、姉が引いてくれた。
2人の兄は自宅で被爆。仕事場から戻った父が遺体を見つけた。爆心地から約500メートルしか離れておらず、真っ黒で見分けがつかないほどだったらしい。母は買い物中に被爆。しばらく入院していたが、8月下旬、家族の元に戻って来た。最後に子どもに会わせるためだったと思う。30日に亡くなった。
城山国民学校の児童だったが、同校は爆心地そばで通えなくなり、46年4月からは勝山小に移った。自宅に近い学校が再開するたびに転校した。卒業は城山小で迎えられたが、入学当時の同級生はほとんどが亡くなっていた。
右半身にはケロイドが残った。からかわれることはなかったが、見られるのが嫌で帽子をかぶり、夏でも長ズボンをはいた。特に海水浴は嫌だった。帽子を脱がなければいけない場所では決まって一番後ろの右端に座っていた。
母は熱心なカトリック信者で私も洗礼を受けていた。被爆後は教会にほとんど行かなかったが、20代後半から少しずつ活動するようになった。その一環で沖縄や熊本の国立ハンセン病療養所に足を運んだり、フィリピンの若者を支援したりするようになった。自分が被爆し家族を失い、食糧難も経験したからこそ、苦しんでいる人を放ってはいられなかった。
◎私の願い
戦争はしてはいけない。私は相手を傷つけたくないから戦いたくない。ただ、実際に戦争が起きたら、抵抗せずにいられるだろうか。人間は弱い。空襲で自宅が壊れていなければ、私も死んでいたはず。運命は分からないものだ。