加地英夫さん(90)
被爆当時12歳 旧制瓊浦中1年、爆心地から1.8キロの長崎市寿町(当時)で被爆

私の被爆ノート

死の恐怖におびえ

2023年09月07日 掲載
加地英夫さん(90) 被爆当時12歳 旧制瓊浦中1年、爆心地から1.8キロの長崎市寿町(当時)で被爆

 旧制県立瓊浦中(現・長崎市竹の久保町の県立長崎西高)に通うため、生まれ育った同市沖の端島(通称・軍艦島)を離れ、1945年4月から稲佐で、8月から大浦の下宿先で暮らしていた。
 あの日。英語の期末試験を終え、路面電車に乗って下宿先へ帰る途中だった。稲佐橋手前の寿町(現宝町)に差しかかった頃、架線が外れたのか、はしごを架けて作業する人の姿が見えた。電車が立ち往生し、待っていると「ブーン」と飛行機の音がした。何度か空襲を経験していたので「長崎駅の辺りがやられるのでは」と身構えた。
 すると突然、黄白色の光に包まれ、同時に左ほおの辺りに異常な熱を感じ、思わず両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。今思い返すと左後ろ側が爆心地の方角だった。耳をつんざくような爆音がして何も聞こえなくなった。「早く逃げなければ」。電車から飛び出し、辺りを見渡すと、厚い雲に覆われ「墨絵のような」薄暗さだった。
 目の前の民家が倒れ、砂煙で視界が遮られた。3台並んだ電車のうち1台の下から炎が上がっていた。山手の方に必死に逃げ、ようやく防空壕(ごう)を見つけた。ほっとしたのもつかの間、次々とけがした人たちが壕の中に入ってくる。「助けてください」。やけどで腕の皮膚が垂れ下がった人や頭から血を流している人など、生き地獄のようだった。
 壕の中で同級生と偶然会い、鳴滝にある寮に戻るというので途中まで付いていくことにした。諏訪神社で別れ、寺町通りを1人で下宿先の大浦へ向かい、思案橋付近で県庁が燃えているのが見えた。夕方に大浦にたどり着き、近くの防空壕で夜を明かした。
 2日後、船で端島に戻った。母親の姿を桟橋で見つけ「恐ろしかったばい」としがみついた。翌日下痢と発熱に襲われ、その後も微熱と体のだるさが続いた。心配した母親が柿の葉を煎じて飲ませてくれた。原爆に遭い、端島に戻っていた瓊浦中の先輩が亡くなり、「ガスを吸ったから」と地域でうわさになった。「自分もこのまま死んでいくのか」。死の恐怖におびえた。
 9月に入って少しずつ体力が戻り、10月に学校に行くと校舎は全壊していた。鳴滝の旧制県立長崎中を仮校舎にして授業が再開されたが、約300人いた1年生のうち100人以上が原爆で亡くなり、復帰したのは半数ほどだった。

◎私の願い

 原爆で亡くなった同級生らの慰霊祭に参列している。将来ある若者の命を奪った原爆や戦争の残酷さを伝えていかないといけない。軍艦島の取材に来た外国人記者や地元の小学生に自分の体験を話しているが、一人でも多くの人に伝えたい。

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