毎年8月が近づくと、榮子姉さまとの思い出が頭に浮かぶ。8人きょうだいの三女で一番年が近く、たくさんかわいがってくれた。一緒に生きてこられたら、と今でも考える。
あの時、西山町2丁目(当時)の自宅で突然「ドカーン」という音を聞いた。急いで庭の防空壕(ごう)に逃げ込んだ瞬間も地響きがして「近くの家に爆弾が落ちたんだ」と思った。落ち着いた頃、外へ出ると、部屋にはふすまやガラス片が飛び散っていたが、家の形は残っていた。
榮子姉さまは学徒報国隊として三菱長崎兵器製作所大橋工場に通っていた。「浦上方面が大変らしい」と聞いて母と兄が捜しに向かった。後で兄に聞くと、金比羅山を越えた先の爆心地の方は、たくさんの人が傷つき、悲惨な光景だったそうだ。翌日、勤務先の三菱重工業長崎造船所から帰ってきた父も捜したが、消息は分からずにいた。
11日、母が台所にいると、裏の扉がカタンと開き「お母さま」という声が聞こえた。驚き見に行くと、榮子姉さまがいたという。疲れ果ててあちこちに傷はあったが、大きなけがはなかった。いつもと服が違ったので、誰かに服を借りたのだと私は思った。
お使いで城山国民学校に行った際に被爆したという。校舎の上の階にいたが階段は崩れ、鉄筋などをつたって下りたのだと話してくれた。帰ってきてくれてよかったとみんなで喜んだのもつかの間、床に伏してしまった。
私たちがうちわであおぎ、母が懸命に重湯などを食べさせようとしたが、喉を通らず、どんどん衰えていった。長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)に救護所があると聞き、兄と私が19日に連れて行った。
喉がただれ、衰弱していると医師に言われた。血液型が同じ兄が輸血。名前と生年月日を聞かれ、苦しい中でしっかりと答えた声が、今も私の耳に残っている。
翌朝、息を引き取った。荼毘(だび)に付したとき、火に飛び込みそうな母を私と長姉で引き留めた。ついていきたいという思いだったのだろう。
当時16歳だった榮子姉さまが一人で火の海を見て焼け野原を歩いた時、どんなに苦しかったか。やっとの思いで自宅に帰った時は、ほっとしただろう。生きていたことを記録に残しておきたくて、私の体験を話すことにした。
◎私の願い
今もウクライナなどで罪のない人が戦争で亡くなっている。人々がどんな思いで過ごしているのかと思うとつらい。早く平和な世界になり、自分の息子や孫たちの世代が将来の希望を持ち、穏やかな生活が送れるよう祈っている。