川勝國子さん(89)
爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

私の被爆ノート

12歳の誕生日に被爆

2023年08月03日 掲載
川勝國子さん(89) 爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

 誕生日は8月9日。12歳を迎えた「あの日」、家に両親といると、朝から飛行機の音がしたので、大きな押し入れに隠れようとした。靴を履き、長ズボンに着替え、逃げる用意をしていたが、その間に空襲警報が解除された。
 11時2分の少し前。「お母さん、飛行機の音がしているよ」。押し入れの前で呼びかけたのもつかの間、一瞬真っ暗になった。何が起きたか、今でも分からない。おそらく爆音と爆風で意識が吹き飛んだのだろう。
 どれくらい時間がたっただろうか。昼時なのに辺りは暗く、土ぼこりが余計に視界を悪くした。家の下敷きになっていたところを父が助け出してくれた。母は私をかばったばかりに、背中が青い打ち傷だらけに。土ぼこりが沈むまで、家の近くでじっとしていた。
 ようやく辺りの輪郭が見え始めたのを見計らって、父に背負われたまま、家の隣の正徳寺敷地内に移った。家の押し入れの真横は、寺に続く石垣だったので、すぐ境内に逃げられた。周りを見渡すと建物は全て倒れ、あちらこちらから火が燃え上がっていた。
 しばらくして雨が降ってきたのを覚えている。「もう助からないだろう」。じゃんじゃん降り注ぐ雨を見て、絶望した。境内で野宿した数日間、とても暑い日が続いたが、心は冷たかった。
 学徒動員で工場に駆り出されていた2人の兄が戻ってきた。私を含め大けがを負った家族がいなかったのは、不幸中の幸いだった。その後、10日間ほど、学校の踊り場に避難したが、「学校なので避難されても困る」と言われ、やむなく出て行った。寺に戻ると「うちは避難所じゃない」とまたも断られた。行き場がなく、とても悲しかった。
 その後、兄たちが懸命に作った掘っ立て小屋で生き延びた。同時に、父の知り合いが空き家を探してくれ、現在の長崎電気軌道の石橋電停近くにあった借家に移った。
 戦後は良き夫に出会い、穏やかな人生を送ってきた。1957年、被爆者健康手帳を取得。幸いにも、今に至るまで大きな病気は患っていない。しかし、毎年8月9日の誕生日が巡ってくるたびに、あの惨状を思い出し、やるせないほど悲しい気持ちになる。今でも被爆体験は思い出したくない。ただ、もうすぐ90歳。語っておかないと、もう話せなくなると思い、体験を残すことにした。

 

◎私の願い

 ロシアの侵略は腹が立ち、ほかにも世界各地での紛争や内戦などのニュースを聞いただけで嫌な気持ちになる。もう二度と戦争は嫌だ。少なくとも、日本の政府には、戦争をしない、巻き込まれないような政策を立てて実現していってほしい。

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